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第1話 校正の夜

金曜日の夜、午後十時過ぎ。


オフィスビルの十二階、水縁書房の編集部は、まだ煌々と明かりが灯っていた。窓の外には東京の夜景が広がっているが、私にそれを楽しむ余裕はない。赤ペンを握る手が、微かに震えていた。


目の前に積まれた原稿の山。今月刊行予定の新人作家の小説、三回目の校正。それなのに、まだ見落としがある。いや、見落としているのか、それとも、文字が滲んで見えるのか。


最近、妙なことが起きる。原稿の文字が、時々、水で濡れたように滲んで見える。特に「水」という漢字を見ると、その文字だけが、じわりと紙に染み込んでいくような錯覚を覚える。文字自体が、液体に戻ろうとしているような——


そんなはずはない、と思う。疲れているのだろう。今月だけで三冊の校正を抱えている。睡眠時間も、まともに取れていない。そう自分に言い聞かせて、目を擦った。


ふと、デスクの上のペットボトルに目が留まった。半分ほど残った水が、蛍光灯の光を受けて揺れている。見つめていると、水面に、別の顔が映った。


私ではない、誰かの顔。若い女性の、どこか悲しげな顔。私と同じくらいの年齢に見えた。長い髪を、水に浸したように頬に貼り付けて、こちらを見ている——


瞬きをすると、また、私の顔に戻っていた。


息を吐いた。心臓が、少し速い。机に向き直り、原稿の続きに目を落とす。


『山の中で、男は水に魅入られた』


その一行の「水」という字が、まるで生きているかのように、紙の上で揺らめいていた。

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