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第0話 御霊山

長野県警が、令和六年五月二十八日、御霊山中腹で行方不明となった登山者・中嶋良一さん(三十七歳)の捜索を、打ち切った。


——以下は、その、一週間前のこと。


中嶋良一は、東京の都心に勤める、保険会社の主任だった。三十七歳、独身、趣味は登山。年に三度ほど、休みを取って、近隣の山に登るのが、彼の習慣だった。


その日、彼は、有給休暇を、二日、取った。週末と合わせて、四連休。


「次は、御霊山に、行ってみるよ」と、職場の同僚に、軽く告げた。「中部地方の、あまり知られていない、いい山らしい」


新宿駅から、特急で、四時間。それから、ローカル線とバスを、乗り継いで、もう一時間半。山の麓に到着したのは、夕方近くだった。中嶋は、その夜、登山口の近くの、小さなホテルに、一泊した。翌朝、軽い朝食を済ませて、登山道に、入った。


天気は、晴れていた。


登山口を、抜けると、視界が、開けた。


御霊山は、想像していたよりも、ずっと、美しい山だった。


麓から、見上げた稜線は、青みがかった緑で、何重にも、重なっていた。山の中腹から、白い霧が、ゆっくりと、立ち昇っていた。その霧が、朝日に、染められて、わずかに、橙色に、光っていた。


道は、よく踏み固められていた。両脇に、樹齢百年は超えるであろう杉が、整然と並んでいた。木漏れ日が、苔むした石畳の上に、まだら模様を、描いていた。


中嶋は、独身の三十七歳らしく、まめにスマートフォンで写真を、撮りながら、登っていった。


——いい山だ、と、彼は思った。あまり、知られていないのが、不思議なくらいだ。


ただ、いくつか、奇妙なものは、目にした。


道の傍に、苔むした小さな石が、いくつも、立っていた。表面に何かが彫られていたようだが、長い年月で、模様はもう読み取れない。墓石、というほどでは、ない。けれど、ふつうの道標、でも、ない。


ある場所では、石が、円形に、並んでいた。直径、二メートルほど。中央に、もう一つの、平らな石。中嶋は、不思議に思ったが、写真だけ撮って、通り過ぎた。


杉の幹のいくつかには、麻縄が、巻かれていた。古い。何十年も、巻かれたままだったような、色。縄の先には、小さな、白い、布の袋が、結ばれていた。湿っていた。


「お祓いか、何か、かな」と、彼は独り言を漏らした。


鳥の声が、ふと、聞こえなくなった。


中嶋は、それに、気づかなかった。


中嶋は、二時間ほど登ったところで、休憩を、とった。リュックから、水筒を取り出した。けれど、水筒の水は、すでに、ぬるくなっていた。


——傍の沢の水が、冷たそうだった。


中嶋は、沢に、近づいた。


沢は、清らかだった。底の小石まで、はっきり見えた。けれど、水深が、わからなかった。水が、あまりに澄み過ぎていて、十センチの深さなのか、一メートルの深さなのか、目で測れない、ような澄み方。


水音は、なぜか、ほとんど、しなかった。流れているはずなのに、せせらぎ、という音が、薄い。


沢の縁の、平らな石の上に、何か、白いものが、転がっていた。


近づくと、小さな、動物の、骨だった。鼠か、リスか。小さな頭蓋骨と、肋骨。ふつう、こういうものは、土に、還る。けれど、その骨だけが、まだ、表面に残されているように、奇妙に、洗い清められていた。


中嶋は、それを、見ないことに、した。


両手で、水を、すくった。一口、飲んだ。


「うわ」と、彼は、思わず、声を上げた。


「うまい」


何度も、水を、すくって、飲んだ。水筒に、その水を、満たした。


それから、また、登り始めた。


不思議だった。さっきまで、感じていた疲労が、すっかり、消えていた。体の中から、力が、湧いてくるようだった。


歩きながら、彼は、何度も、水筒の水を、口にした。「うまい」と、独り言を、漏らした。「本当に、うまい」


登りながら、中嶋は、御霊山の景色に、いっそう、見とれた。


午前中、見上げていた白い霧が、いつの間にか、自分の足元の、谷間に、降りていた。中嶋は、雲海の、上に、立っていた。眼下に、白い綿雲が、ゆっくりと、流れていた。雲海の上に、ぽつ、ぽつ、と別の山々の頂が、島のように見えていた。


——美しい。


そう、声にも出さずに、彼は、思った。


風はない。なのに、雲海の表面が、海面のように、緩やかに、上下していた。それが、自分の呼吸と、合っているような気が、一瞬、した。


「気のせい、だな」と、中嶋は、呟いた。


そして、また、登り始めた。


午後三時頃。


中嶋は、本道から、わずかに、それていた。


気づくと、登山道の、目印が、見えない場所に、立っていた。


周囲は、深い緑。


杉の木々が、いつの間にか、内側に、傾いていた。彼を、囲むように。閉じ込めるように。けれど、振り返ると、また、まっすぐに、立っていた。


そして、すべての方向から、水音が、聞こえていた。


ぽちゃ。ぽちゃ。ぽちゃ。


自分のいる場所の、どこにも、川は、見えなかった。なのに、地面の下からも、空気の中からも、水音だけが、満ちていた。


「これは——」と、彼は、呟いた。


喉が、急に、渇いた。


水筒の水を、また、飲んだ。


うまかった。


それから、彼は、傍らの平らな岩の上に、座り込んだ。水音を聴いた。


ふと、自分が、何かを、忘れていることに、気づいた。


東京。職場。家族。


その単語たちが、頭の中で、形を、なくしかけていた。代わりに、水音だけが、彼の中に、満ちていた。


ぽちゃ、ぽちゃ、ぽちゃ。


夕方になった。


夕日が、木々の隙間を、照らした。それでも、彼は、立ち上がらなかった。水音が、心地よかった。体が、軽くなっていく感覚が、あった。


夜になった。


月が、出ていた。中嶋は、まだ、岩の上に、座っていた。けれど、彼の輪郭が、わずかに、ぼやけていた。


岩の周りの、空気の中で、無数の小さな水滴が、月光に光って、ゆっくりと、上昇していた。


夜明け前。


岩の上には、もう、誰も、いなかった。


代わりに岩の表面に、わずかな湿気と、人の形をした、ほとんど無臭の透明な液体の染みが残っていた。


——以上は、推定。


長野県警が五月二十八日に現場で発見したのは、岩の上に丁寧にまとめて置かれた、中嶋の登山リュック、上着、登山靴、水筒だけだった。


衣服には、わずかな湿気と、無臭の透明な液体の染みが、残っていた。


中嶋良一本人の遺体は、見つからなかった。


「事件性は認められず」というのが、警察の、公式の見解だった。


中嶋良一の家族は、いまも、彼の帰宅を、待ち続けている。

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