第28話 六十七年前の六月
美樹がお茶を淹れてくれた。湯呑みから立ち上る湯気を見つめながら、私は美樹の話を聞いた。
湯呑みを包んだ指先が、わずかに湿っていた。茶の湯気のせいだと思った。
「昭和三十二年の、二月の終わりだった」と、美樹は語り始めた。
「健ちゃんは、大平建設の若い技術者として、御霊山に派遣されてきたの。ダム建設の、現場監督のひとり」
「水守村に、来られていたんですか?」
「そう。村の旅館に、現場の若い人たちが、十人ぐらい泊まっていてね。私はそこの娘だった」
旅館はもうない。戦後の混乱期に祖父が始めた、小さな宿。美樹はそこで生まれて、十六歳から手伝いをして、二十二歳の時に健一に出会った。
「健ちゃんは、優しい人だった。仕事は厳しかったけれど、私たち村の人間にも、誰にでも丁寧に挨拶をしてね。あの頃の建設現場の人って、もっと荒っぽい人が多かったの。でも、健ちゃんは違った」
二人の関係はすぐに始まった。婚約まで、わずか三ヶ月だった。
「正式には、まだ結納も済んでなかったよ。でも、健ちゃんは私の両親に頭を下げて、『工事が終わったら、必ず美樹さんを東京に連れて帰ります』って約束してくれた。両親も、喜んでた」
工事は順調に進んでいた。第一工区、第二工区と、トンネルの掘削は完了。あとは第三工区を山の奥深くまで掘り進めれば、ダムの建設用道路が完成する予定だった。
「私はね、毎晩、健ちゃんが現場から戻るのを、宿の玄関で待ってたの。健ちゃん、いつも土埃で真っ白になって帰ってきてね。私がお湯を沸かして、足を洗ってあげるの。それが私たちのいちばん幸せな時間だった」
美樹はそこで、一度、目を伏せた。
「六月の頭。第三工区の掘削が、半分まで進んだ日だった。健ちゃんが宿に戻ってきた時、いつもと表情が少し違ってた」




