第20話 贄を迎える支度
翌朝、里穂が私を呼びに来た。
「美咲さん、お祭りの準備、手伝ってもらえませんか。村のみんなで、やるんですよ」
「ええ、もちろん」
私はエプロンを借りて、里穂と村の通りに出た。村のあちこちで、人々がそれぞれの仕事に取り掛かっていた。
ある家の軒先で、年配の女性たちが白い麻の布を縫っていた。襷の縫い直し、と里穂が説明した。
「五日間、毎日洗うので、毎年いくつかは新しく作るんです」
ある家の前で、男たちが木製の梯子を立てて、軒先の麻縄を新しいものに付け替えていた。湿気袋の交換、と里穂が言った。
「去年の袋は、もうたっぷり水を吸ってしまったので」
「水を吸ってしまったら、どうなるんですか」
「井戸に、お返しします」
「お返し」
「うん。最終日の夜に、みんなで井戸の周りに集まって、古い湿気袋を一つずつ、井戸の中に入れていくんです」
里穂は自然にそう答えた。私はそれ以上は聞かなかった。私たちは神社の境内に向かった。境内では村の十数人が、何十個もの白い提灯を紐に吊っていた。提灯には墨で何かが書かれていた。文字、というよりも、波紋のような、円のような、抽象的な模様。
「これは、何ですか」
「水紋です」と、里穂が答えた。
「ひとつの提灯に、ひとつずつ違う水紋。村のみんなで分担して、描くんです」
「里穂さんも、描いた?」
「うん。私の家の方角の、五個」
里穂はその五個を私に見せてくれた。一つずつ、わずかに形が違った。彼女の指先で描かれた、五つの違う水音。
「美咲さんも、一つ描きませんか」
「私が?」
「うん。今年の、特別な提灯」
里穂は私に筆と墨と、白い提灯を一つ渡した。
「水を思って、自由に描いて」
私は筆を握った。
しばらく、何も描けなかった。子供の頃、書道は習っていたが、絵は苦手だった。ふと、井戸の水音が頭の中で響いた。ぽちゃ、ぽちゃ、ぽちゃ。その音のリズムに合わせて、筆を提灯の上に置いた。円ができた。それから、円が開く形に、ゆっくりと線を伸ばした。
完成した私の水紋は、村人たちのものとよく似ていた。里穂が後ろから覗き込んだ。
「上手」
「自分でも、驚いた」
「美咲さんは、水の家系だから」
里穂はにっこりと笑った。私たちは提灯を紐に吊るしていった。境内の上空に、白い提灯の群れが、ゆっくりと増えていった。休憩の時、里穂と二人で、神社の縁側に座った。
「里穂さん、毎年これ、やってるんですよね」
「うん。子供の頃から」
「楽しい?」
里穂はしばらく答えなかった。
「楽しい、というか、ね」と、彼女はゆっくりと言った。
「もう、私の体に染み付いている、というか」
「あの時、ハツさんに止められて、よかったの?」
里穂は私の方を振り向いた。それから、小さく笑った。
「わからない時期も、あったんですよ。十代の頃、何度か、もう一度東京に行ってやろう、って思った時もありました」
「でも、出なかった」
「うん」
里穂は自分の手のひらを見下ろした。
「ある日、気づいたんです。村を出ても、私はもう、どこにも行けない、って。私の中に、もうここの水が流れていて、それが私を、ここに引き戻すんだろうな、って」
「だから」
「うん。受け入れた」
里穂はまた笑った。今度はもっと穏やかな笑い方だった。
それから、ふと声を落とした。
「でもね、美咲さん。受け入れるのと、納得するのは、違うんですよ」
私は彼女の横顔を見た。
「いまでも思うんです。もしあの時、誰か一人でも、掟なんてどうでもいいって言ってくれていたら。私、違う場所にいたのかな、って」
里穂は自分の手のひらを、もう一度見下ろした。その指先が、わずかに握りしめられていた。
「だから、ときどき怖くなる。いつか誰かを止めたくなった時、私、ちゃんと声を出せるのかな、って」
それから、はっと我に返ったように、いつもの柔らかい笑顔に戻った。
「ごめんなさい、変なこと言って。忘れてください」
私たちはそれから、また立ち上がり、提灯の続きに戻った。
夕方、空に橙色の光が差し始めた頃、神社の境内には、百個以上の白い提灯が揺れていた。その光景を、私はしばらく見上げていた。里穂が私の隣に立った。
「綺麗ですね」
「うん」
「お祭り、楽しみましょうね、美咲さん」
私は頷いた。
——お祭りの本当の意味を、私はまだ知らなかった。




