第18話 また一人、呼ばれた
里穂の家に向かう途中、村でただ一軒の商店の前を通った。古い木造の建物。看板はすっかり褪せて、何の店か、よくわからないほどだった。けれど、引き戸が開いていて、店先に老婆が一人、椅子に座っていた。里穂が会釈した。
「こんばんは、ハナさん」
老婆は私を見て、目を細めた。齢の頃、八十代後半か、九十近いだろうか。骨ばった手で、何かを編みかけていた。膝の上には糸でできた小さな模様。井戸を表すような、円い形。
「あんたが、美智子さんのお孫さんかい」
声はしわがれていたが、よく通った。
「はい」
「来たんだね」
それは確認のような、納得のような、不思議な言い方だった。
「明日は晴れだよ」と、老婆は続けた。
「お山に登るなら、足元、気をつけなさいね。沢の水、特にね」
「沢の水、ですか?」
「うん。あれはもうただの水じゃないからね」
——ただの水じゃない。
その言葉の意味を尋ねようとした時、老婆はにやり、と笑った。ただし、口元だけが笑っていて、目は笑っていなかった。
「気のせいだよ」と、老婆は言い直した。
「あたしは、ただお山が好きでね。みんな、気をつけて登ってほしいだけさ」
老婆は編みかけの糸を、わずかに撫でた。
「先月もね、登山者がひとり、お山で、行方不明になったんだよ」
私は息を止めた。
「東京から来た、若い男の人。三十代の、独身の方だったらしい。長野の警察が何日も捜索したけど、結局、見つからなかった、ってさ」
「あの——」
「事件性は、認められず、だって。警察はそう片付けた」
老婆はふっと笑った。
「あたしらは、わかってるんだよ。お山がまたひとり、お招きしたんだろう、って」
里穂が私の腕を、優しく引いた。
「ハナさんは、村で一番長く水見の家を見守ってきた方なんですよ。お話はまた今度ゆっくり」
私たちが店先を離れる時、老婆がもう一度、私を見た。その目にはもう警告も笑いもなかった。
——ただ、深い、深い、悲しみだけが宿っていた。




