第17話 「おいしい」と言ってしまった
夕方、約束通り、里穂が迎えに来てくれた。
「お疲れでしょう? うちで夕食、よかったら」
「いいんですか? ご家族にお邪魔して」
「みんな、楽しみにしてるんですよ。美咲さんが来てくれたのを」
里穂と並んで、村の道を歩いた。山から下りてくる風が、初夏の夕暮れに冷たく心地よかった。途中、村の中央にある井戸の前を通った。
「あれは、村の井戸です」里穂が言った。
「水守村で一番古い井戸」
石組みの円い縁。底は覗き込めないほど深そうだった。井戸の周りには、誰かが供えた花が並んでいた。
「一口、飲んでみますか?」里穂が傍らの柄杓を差し出した。
「みなさん、初めて村に来た方は、必ずここの水を一口、飲んでいかれるんですよ」
「初めての方は、必ず?」
「ええ。歓迎の意味で」里穂は柔らかく微笑んだ。
「美咲さんも、もう村の一員ですから」
——もう、村の一員。
そう言われて、心に、温かいものがふっと広がった。私は柄杓を受け取り、井戸の底から汲み上げられた水を、口元に運んだ。冷たかった。氷のように冷たい、けれど、舌に触れた瞬間、その冷たさは消えて、何か別の感覚に変わった。
その冷たさに、ふと東京での日々がよぎった。校正していた本で、「水」が「氷」に化けていた、あの誤植。何度見直しても、ゲラには「水」とあったのに、刷り上がった本では「氷」になっていた。あの時は自分の疲れのせいだと思っていた。
——なぜ、いま、それを思い出すのだろう。
この水はただの水だ。なのに舌の上で、ほんの一瞬だけ、氷の角のような硬い冷たさが走った気がした。
——おいしい。
そう感じた。何の比較もできないほど、ただおいしい、と感じた。東京の水道水ともペットボトルの水とも違う。雨水でも川の水でもない、もっと根源的な何か。私はもう一口飲んだ。
里穂がその様子を見ていた。私の表情を、何かを確かめるように、じっと見つめていた。
「美咲さんも、感じられたんですね」と、里穂は優しく微笑んだ。
「この村の水は、わかる人にはわかるんです」
「わかる人?」
「ええ。お祖母様も、そうおっしゃっていました」
里穂は柄杓を井戸の縁に戻し、私の手を引いて、また歩き始めた。その手は温かかった。
——あまりに、温かかった。




