表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/55

第17話 「おいしい」と言ってしまった

夕方、約束通り、里穂が迎えに来てくれた。


「お疲れでしょう? うちで夕食、よかったら」


「いいんですか? ご家族にお邪魔して」


「みんな、楽しみにしてるんですよ。美咲さんが来てくれたのを」


里穂と並んで、村の道を歩いた。山から下りてくる風が、初夏の夕暮れに冷たく心地よかった。途中、村の中央にある井戸の前を通った。


「あれは、村の井戸です」里穂が言った。


「水守村で一番古い井戸」


石組みの円い縁。底は覗き込めないほど深そうだった。井戸の周りには、誰かが供えた花が並んでいた。


「一口、飲んでみますか?」里穂が傍らの柄杓を差し出した。


「みなさん、初めて村に来た方は、必ずここの水を一口、飲んでいかれるんですよ」


「初めての方は、必ず?」


「ええ。歓迎の意味で」里穂は柔らかく微笑んだ。


「美咲さんも、もう村の一員ですから」


——もう、村の一員。


そう言われて、心に、温かいものがふっと広がった。私は柄杓を受け取り、井戸の底から汲み上げられた水を、口元に運んだ。冷たかった。氷のように冷たい、けれど、舌に触れた瞬間、その冷たさは消えて、何か別の感覚に変わった。


その冷たさに、ふと東京での日々がよぎった。校正していた本で、「水」が「氷」に化けていた、あの誤植。何度見直しても、ゲラには「水」とあったのに、刷り上がった本では「氷」になっていた。あの時は自分の疲れのせいだと思っていた。


——なぜ、いま、それを思い出すのだろう。


この水はただの水だ。なのに舌の上で、ほんの一瞬だけ、氷の角のような硬い冷たさが走った気がした。


——おいしい。


そう感じた。何の比較もできないほど、ただおいしい、と感じた。東京の水道水ともペットボトルの水とも違う。雨水でも川の水でもない、もっと根源的な何か。私はもう一口飲んだ。


里穂がその様子を見ていた。私の表情を、何かを確かめるように、じっと見つめていた。


「美咲さんも、感じられたんですね」と、里穂は優しく微笑んだ。


「この村の水は、わかる人にはわかるんです」


「わかる人?」


「ええ。お祖母様も、そうおっしゃっていました」


里穂は柄杓を井戸の縁に戻し、私の手を引いて、また歩き始めた。その手は温かかった。


——あまりに、温かかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ