第16話 飲んではいけない水
里穂と源蔵に挨拶を済ませて、再び祖母の家に戻った。里穂は「夕食までに、また迎えに来ますね」と言い残して、自分の家へ帰っていった。一人になった家の中、私はしばらく仏壇の前に座っていた。祖母の遺影。満ち足りた笑顔。
私が記憶していた祖母とは、別人のような表情。ふと、思った。祖母は最後の年、何を見たのだろう。何が彼女をあれほど穏やかにさせたのだろう。リュックを開けて、桐箱を取り出した。和紙に包まれた、ガラスの瓶。祖母の字で書かれた一文を、もう一度見た。
『美咲へ。山に入る時は——』
その先は東京で見た時から何度も読み返していて、もう諳んじていた。私は瓶を持ったまま、しばらく動けなかった。
——「山に入る時」。
私はもう、山に入っている。御霊山の麓。水守村。祖母が最後の時を過ごした場所。和紙には東京で見たのと同じ祖母の字が、まだ私を見つめていた。
『美咲へ。山に入る時は——』
その後はいま読まない。読まなくても、覚えていた。栓を、ゆっくりとひねった。和紙の紐がほどけた。中の水を、湯呑みに半分ほど注いだ。色のない、香りのない、ただの水に見える。けれど、その水面に、私の顔が不思議なくらいはっきりと映っていた。
私は祖母の遺影を見上げた。仏壇の蝋燭の炎が、静かに揺れていた。
「お祖母ちゃん、守って」
そう、口に出して言った。そして、湯呑みを傾けた。水が喉を通った瞬間——体の奥の方から、温かい何かがふわりと広がった。母のような、姉のような、誰よりも近い誰かに抱きしめられたような感覚。
そして、瓶の水を飲んだその一瞬、家の外の遠くから、子守唄のような、わらべ歌のような、ゆったりとした節が聞こえた気がした。私はそれを「気のせい」だと思って、湯呑みに残った水を、ゆっくりと最後まで飲み干した。




