第97章
宿屋の屋上は、ひどく静かだった。
ひんやりとした夜風が、日中の戦いで火照った頬を撫でていく。
眼下には、アルディアス王都の家々の灯りが、まるで地上に撒かれた星々のように瞬いていた。
空を見上げれば、月が蒼白い光を投げかけ、俺――アルフレッド・ヴァンダインの金色の髪を、白銀に変えている。
俺は、宿の屋根の縁に腰掛け、ただ黙ってその光景を眺めていた。
プレートアーマーは部屋に置き、今は動きやすい革のベストとシャツという軽装だ。
「蒼真の魔法がなかったら、危なかったかもしれないわね」
「お兄ちゃん、すごかったもん!」
階下の部屋の窓から、楽しげな声が漏れ聞こえてくる。
蒼真と、エリーナと、ルナ。
三人が、今日の初任務の成功を祝して、ささやかな宴を開いているのだ。
俺も、ついさっきまでその輪の中にいた。
リリアから受け取った報酬で買った、少しだけ良いエール酒と、焼きたてのパン、そして大皿に盛られた肉料理。
それを囲んで、他愛もない話で笑い合った。
魔物との初戦闘で腰が引けていた蒼真をからかい、冷静沈着に見えて、実は蜘蛛が苦手だというエリーナの一面を知り、ルナが隠し持っていた木の実をみんなに分けてもらう。
そのすべてが、眩しかった。
あまりにも、眩しすぎた。
「……この温かさ、か」
俺は、無意識に呟いていた。
そうだ。これだ。
これが、俺が数百年もの間、たった一人で求め続けていたものだ。
仲間と笑い合い、背中を預け、一つの目標に向かって共に進む。喜びも、苦しみも、すべてを分かち合う。
その、魂が震えるような、温かい繋がり。
今日の夕食の席で、俺は確かにそれを感じていた。
この乾ききった魂の奥深くに、何百年ぶりかに、温かい雫が染み渡っていくような、そんな感覚。
ああ、この物語を創って、本当に良かった。
心から、そう思った。
だが。
俺は、ゆっくりと自分の手を見つめる。
騎士として鍛え上げられた、ごつごつとした、力強い手。
この手は、俺の手であって、俺の手ではない。
アルフレッド・ヴァンダインという、俺が魔法で偽装している「役」の肉体だ。
「俺は……演じているだけだ」
声が、夜の静寂に虚しく溶けていく。
そうだ。俺は、役者にすぎない。
あの温かい輪の中で、俺は完璧な「アルフレッド」を演じていた。
頼り甲斐があって、面倒見が良くて、仲間思いの、理想のリーダーを。
蒼真が俺に向ける、尊敬の眼差し。
エリーナが俺に示す、絶対的な信頼。
ルナが俺にくれる、屈託のない笑顔。
その全てが、俺の胸を締め付ける。
嬉しいはずなのに、同時に、ナイフで抉られるように、痛い。
この愛は、この信頼は、この笑顔は――「アルフレッド」に向けられたものであって、本当の俺、数百年の孤独に心を蝕まれた、あの漆黒の魔王に向けられたものではない。
彼らがもし、この金髪碧眼の騎士の皮を一枚剥いだ下に、あの異形の怪物がいると知ったら、どう思うだろう。
ふと、今日の戦闘後の、蒼真の顔が脳裏に蘇る。
初めての魔物討伐。恐怖に震えながらも、俺たちの言葉を信じ、勇気を振り絞って放った魔法が、魔物を仕留めた瞬間。
彼は、信じられないといった顔で自分の手を見つめ、やがて、はにかむように、誇らしげに、笑ったのだ。
それは、俺がずっと昔に失ってしまった、純粋で、一点の曇りもない、本物の笑顔だった。
「……十五歳の頃の俺は、こんなにも、愛される存在だったのか」
嫉妬。
その黒く、醜い感情が、腹の底から、マグマのようにせり上がってくる。
俺は思わず、屋根の瓦を強く握りしめた。ミシリ、と嫌な音がして、硬い瓦に亀裂が入る。
あいつは、俺だ。
あの絶望的な日本での日々、父親に殴られ、存在価値を否定され続けた、無力な俺だ。
俺が経験した苦しみを、あいつも知っているはずだ。
なのに、なぜ。
なぜ、あいつだけが、この温かい光の中心にいられるんだ?
なぜ、あいつだけが、仲間たちの愛を、一身に受けることができるんだ?
おかしいじゃないか。
理不尽じゃないか。
俺は、あいつが経験した絶望の、さらにその先にある、何百年という永劫の孤独を味わってきたというのに。
この物語の創造主は、この俺だというのに。
なぜ、俺は観客席から、舞台の上で脚光を浴びる自分自身の姿を、ただ眺めていることしかできないんだ?
「あいつらが……幸せそうで……」
階下から、またルナの甲高い笑い声が聞こえてきた。
その声を聞いて、俺の中の黒い感情が、一瞬だけ揺らぐ。
そうだ。彼らは、幸せそうだ。
俺が創った、完璧な仲間たち。
俺が創った、理想の勇者。
彼らが、俺の描いた筋書き通りに、絆を深め、成長し、幸福を享受している。
その光景は、創造主として、純粋な満足感を俺に与えてくれる。
それだけで、十分じゃないのか?
この乾ききった俺の心を慰めるには、それだけで、いいのかもしれない。
「……いや、だめだ」
俺は、かぶりを振った。
だめだ。足りない。
そんなもので、この渇きが癒えるはずがない。
俺は、観客でいたいんじゃない。
俺も、あの輪の中に入りたいんだ。
「アルフレッド」としてじゃない。「魔王」としてでもない。
ただの「蒼真」として、彼らと笑い合いたい。
だが、それは絶対に叶わない。
俺は、この物語の創造主であると同時に、この物語における、最大の禁忌。
俺が本当の姿を現した瞬間、この美しい物語は、音を立てて崩れ去る。
俺は、永遠に、この輪の外側にいるしかないのだ。
俺は、天を仰いだ。
月が、まるで冷たい眼のように、俺を見下ろしている。
その光景が、かつての記憶と重なった。
異世界で、初めて仲間を失った日。
そして、美月を失った日……。
「美月……」
その名を呟くと、胸の奥の疼きが、また激しくなった。
お前がいた頃。
あの頃の俺にも、こんな仲間がいてくれたら。
アルフレッドがいて、エリーナがいて、ルナがいてくれたなら。
俺は、違う未来を選べただろうか。
お前を、失わずに済んだだろうか。
だが、そんな詮無いことを考えても、意味はない。
過去は変えられない。
俺にできるのは、この完璧な物語を、続けることだけだ。
たとえ、それがどれだけ俺の心を苛もうとも。
この、偽りの温かさに、依存し続けるしかない。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
階下から聞こえてくる楽しげな声に、背を向ける。
「……そろそろ、戻るか」
また、あの完璧な「アルフレッド」の仮面を被って。
仲間たちの輪の中へ。
この、甘美で、残酷な、地獄へと。
夜風が、俺の呟きを、どこへともなく運び去っていった。




