第96章
女神アリエルに与えられた服に着替え、神殿で数日を過ごした後、少年――15歳の橘蒼真は、生まれて初めて「期待」という感情を胸に、アルディアス王都の門をくぐった。
そこは、彼が知るどんな場所とも違っていた。
白い石畳がどこまでも続き、その両脇には赤レンガや漆喰の壁を持つ、美しい建物が立ち並んでいる。
空には見たこともない鳥がさえずり、馬に引かれた馬車が、心地よい蹄の音を響かせながら通り過ぎていく。
すれ違う人々は、人間だけでなく、耳の尖った美しいエルフや、獣の耳と尻尾を持つ快活な獣人など、様々だった。
市場の活気、香ばしいパンの焼ける匂い、吟遊詩人が奏でるリュートの音色。
その全てが、蒼真の五感を鮮やかに刺激する。
絶望的な灰色だった彼の世界は、一夜にして極彩色の楽園へと変わっていた。
女神に言われた通り、蒼真は王都の中央広場に面した、一際大きな建物を目指した。
掲げられた看板には、交差した剣と盾の紋章。
――冒険者ギルド。
中に入ると、むっとするような熱気と、エール酒の甘い香り、そして男たちの汗の匂いが混じり合った、独特の空気が彼を包んだ。
昼間だというのに、併設された酒場では屈強な戦士たちが大声で武勇伝を語り合い、テーブルの隅ではローブを被った魔法使いたちが何やら怪しげな相談をしている。
壁一面に貼られた依頼書の前では、冒険者たちが次の仕事を探して唸っていた。
その殺伐とした雰囲気に、蒼真は思わず身を縮こませる。
ここにいる人たちは、みんな強いのだろう。
自分のような、ひ弱で、何の取り柄もない人間がいていい場所ではない。
彼の心に、かつての日常で染み付いた自己否定の念が鎌首をもたげた。
教室の隅で、息を殺して、透明人間になっていたあの頃のように。
そう思った、その時だった。
「あら、こんにちは! 新しい冒険者の方ですか?」
明るく、鈴を転がすような声が、彼の耳に届いた。
声のした方へ顔を向けると、受付カウンターの中から、一人の女性がにこやかに微笑んでいた。
ギルドの制服である白いブラウスと茶色のベストが、彼女の健康的な魅力を引き立てている。
受付嬢のリリアだ。
「あ、あの……橘蒼真、です。今日、登録に……」
「橘蒼真様ですね! 女神アリエル様から、お話は伺っておりますよ。お待ちしておりました!」
リリアはそう言うと、一枚の羊皮紙を取り出した。
「こちらにサインをしていただければ、あなたの冒険者登録は完了です。ギルドでは、依頼の斡旋や、冒険に役立つ情報の提供、買い取った素材の換金などを行っています。分からないことがあれば、いつでも気軽に聞いてくださいね!」
その太陽のような笑顔に、蒼真の心の氷が少しだけ溶かされるのを感じた。
彼は震える手でペンを取り、自分の名前を書き込む。
すると、リリアは「はい、ありがとうございます!」と満面の笑みを浮かべると、カウンターの奥に向かって声を張った。
「みなさーん! お待たせしました! 蒼真様がいらっしゃいましたよー!」
その声に、ギルドの奥にある談話室のドアが勢いよく開いた。
そして、三人の若者が、蒼真の前に姿を現した。
彼の、運命の仲間たちが。
「よお! お前が俺たちの新しい仲間か!」
最初に声をかけてきたのは、太陽のような輝きを放つ青年だった。
眩しいほどの金髪を無造作に掻き上げ、空の色を映したような碧い瞳が、悪戯っぽく細められている。
彫りの深い精悍な顔立ちに、屈託のない笑顔。
背が高く、鍛え上げられた身体は、鋼のようなプレートアーマーに包まれている。
腰に下げた長剣の鞘には、歴戦の傷が無数に刻まれていた。
騎士、アルフレッド・ヴァンダイン。
頼れる兄貴分そのものの雰囲気を纏っている。
「俺はアルフレッド! よろしくな、相棒!」
彼はそう言うと、ためらうことなく、蒼真の前に手を差し出した。
差し出された手。
それは、蒼真にとって殴られる前の予備動作でしかなかった。
彼はどうすればいいのか分からず、ただ戸惑う。
アルフレッドはそんな蒼真の様子に「ん?」と小首を傾げ、次の瞬間、彼の右手をがしりと力強く掴んだ。
温かい。
ごつごつとして、分厚い、騎士の手。
その温かさが、まるで電流のように、蒼真の腕を駆け上がった。
痛くない。殴られない。ただ、温かい。
誠実な碧い瞳が、まっすぐに蒼真を見つめている。
「相棒……」
蒼真の口から、掠れた声が漏れた。
「あなたが、勇者様ね」
凛とした、知的な声。
ふと見ると、アルフレッドの隣に立つ、銀髪の美しいエルフが、手にしていた分厚い魔導書から顔を上げて、蒼真を観察していた。
月光を吸い込んだかのような、静かな輝きを放つ銀の髪。
深い森の湖を思わせる、神秘的な緑色の瞳。尖った耳が、彼女の種族を物語っている。
深い青色のローブを纏ったその姿は、まるで一枚の絵画のように、完成された美しさを持っていた。
「私はエリーナ・フォルティッシモ。あなたのその身に宿る魔力、とても興味深いわ」
「きょ、興味深い……?」
「ええ。純粋で、強大。だけど、あまりにも荒々しくて、制御ができていない。まるで、生まれたての恒星のようね。……ふふ、でも、磨けば最高の宝石になる。私が、指導してあげる」
エリーナの涼やかな口元に、微かな、しかし確かな笑みが浮かんだ。
それは、新しい研究対象を見つけた学者のような、知的好奇心に満ちた笑みだった。
「よ、よろしくお願いします……」
蒼真は、慌てて頭を下げる。
こんなに綺麗な人に、まともに見つめられたことなど、彼の人生で一度もなかった。
「あたしはルナ・カーマイン!」
突然、元気いっぱいの声が響いたかと思うと、エリーナの後ろから、一人の少女がひょっこりと顔を出した。
燃えるような赤い髪をポニーテールに揺らし、頭の上では、ぴこぴこと動く狼の耳。
腰からは、ふさふさの尻尾が楽しそうに振られている。
大きな瞳はキラキラと輝き、人懐っこい笑顔が満開だった。
「よろしくね、お兄ちゃん!」
「お、お兄ちゃん……?」
聞き慣れない呼び名に、蒼真の頭は完全に混乱する。
「うん! あたし、ずっとお兄ちゃんが欲しかったんだ!」
ルナはそう言うと、何のてらいもなく、蒼真の腕にぎゅっと抱きついてきた。
柔らかい感触。甘い匂い。
そして、子犬のような温もり。
彼の視界が、急に滲む。
熱いものが、目頭から次々と溢れ出して、頬を伝っていく。
「本当に……俺なんかで、いいの……?」
嗚咽混じりの、情けない声が彼の口から漏れた。
こんな自分が、勇者? 仲間? 家族?
ありえない。自分は、誰からも必要とされない、生きている価値もない、ただのクズのはずなのに。
「何言ってんだよ」
アルフレッドが、呆れたように、でも優しく笑った。
「俺たちは、今日から仲間だろ? 仲間ってのはな、家族みたいなもんなんだよ」
「家族……」
彼が最も忌み嫌い、そして最も渇望していた言葉が、心に響く。
「そうよ」
エリーナも、静かに、しかし力強く頷いた。
「私たちはこれから、共に戦い、共に生きるの。嬉しいことも、辛いことも、全部一緒に分かち合う。お互いを信頼し、守り合う。それが、仲間よ」
「お兄ちゃん、泣いてるの?」
腕に抱きついたままのルナが、心配そうに彼の顔を見上げてくる。その純粋な瞳が、彼の心を締め付けた。
「泣かなくていいんだぜ。今日から、俺たちが、お前の家族だからな」
アルフレッドが、大きな手で、蒼真の肩を力強く叩いた。
その温かさが、涙で冷えた身体に、じんわりと染み渡っていく。
「……本当に?」
「本当よ」
エリーナが、断言した。その緑の瞳には、一片の嘘もなかった。
「私たちは、あなたを見捨てたりしない」
「絶対だよ!」
ルナが、蒼真の腕をさらに強く抱きしめた。
「ありがとう……ありがとう、みんな……」
蒼真は、ただそれだけを繰り返すことしかできなかった。
アルフレッドが、彼の腕を取り、その上に自分の手を重ねる。
エリーナが、ルナが、次々とその上に手を重ねていく。
四つの手が、ギルドの喧騒の中で、確かに一つになった。
◇
ギルドで最初の依頼を受けた一行は、王都の門を抜け、緑豊かな森の入り口に立っていた。
木々の間を吹き抜ける風が、土と草の匂いを運んでくる。
「よし、じゃあ初任務だ。依頼は、この森に住み着いた魔物の討伐だ」
アルフレッドが、リリアから受け取った依頼書を確認しながら言った。
「魔物……」
その言葉に、蒼真の声が震える。
さっきまでの感動とは違う、原始的な恐怖が、腹の底から這い上がってきた。
「大丈夫?」
エリーナが、心配そうに蒼真の顔を覗き込む。
「俺……戦ったことなんて、一度もなくて……」
「みんな、最初はそうよ」
エリーナは、まるで出来の悪い生徒を諭す先生のように、優しく言った。
「でも、あなたは一人じゃないわ」
「そうだよ、お兄ちゃん!」
ルナが、蒼真の隣で元気に拳を突き上げた。
「あたしたちがいるもん! 大丈夫、大丈夫!」
その言葉に、蒼真の心臓を鷲掴みにしていた恐怖が、少しだけ和らいだ。
そうだ。もう一人じゃない。
「作戦を説明する」
アルフレッドが、真剣な表情で言った。
「俺が前衛で敵の攻撃を引き受ける。エリーナは後衛から、魔法で俺のサポートと敵の妨害を頼む。ルナは、その俊敏性を活して敵陣を撹乱し、側面から攻撃してくれ」
三人は、慣れた様子で頷く。
その連携には、一切の淀みがない。
そして、アルフレッドは、まっすぐに蒼真を見つめて言った。
「蒼真。お前は、エリーナの隣で、魔法による援護を頼む」
「俺に……できるのか……?」
「できる」
アルフレッドは、断言した。
その碧い瞳には、絶対的な信頼が宿っていた。
「お前の魔力は、本物だ。俺が保証する」
「私も、信じているわ。あなたの力は、私たちの切り札になる」
エリーナも、静かに頷く。
「お兄ちゃんなら、絶対大丈夫だって!」
ルナが、満面の笑みで蒼真の背中を叩いた。
信じられている。
期待されている。
必要と、されている。
その事実が、恐怖に凍りついていた蒼真の身体に、熱い力を注ぎ込んでいく。
彼は、ごくりと唾を飲み込み、震える声で、しかしはっきりと、答えた。
「……わかった。やってみる」
その言葉を聞いて、三人は、満足そうに笑った。
彼らの、最初の冒険が、今、始まろうとしていた。
この、完璧に用意された、理想の仲間たちと共に。




