第95章
創世の光が収束し、時空の座標が固定される。
俺の全能の意識は、二つの世界を繋ぐ回廊を構築した。
準備は、完了した。
俺は、引き金を引く。
アルディアス大神殿の至聖所。
精緻な魔法陣が描かれた床の中央に、光の柱が立った。
柱の光がゆっくりと収まり、その中から一人の少年が、まるで生まれ落ちるかのように姿を現す。
橘蒼真。十五歳。過去の俺。
青白い肌には生気がなく、何よりもその瞳――虚ろで、何の光も宿していない暗い瞳が、この世界のあまりの眩しさに耐えかねるように、怯え、揺れていた。
彼は、自分の身に何が起きたのか理解できず、ただ呆然と周囲を見回している。
俺は、意識を飛ばし、その光景を観測する。
そうだ。その顔だ。その怯え、その混乱。それこそが、始まりにふさわしい。
絶望の闇が深ければ深いほど、希望の光はより強く輝くのだから。
「――ようこそ、勇者様」
聖なる鐘の音のように、清らかで、温かい声が響いた。
少年――蒼真がおそるおそる声のした方へ顔を向ける。
そこに立っていたのは、女神アリエル。
俺が創造した、完璧な母性の象徴。
彼女は慈愛に満ちた微笑みを浮かべて、ゆっくりと蒼真へと歩み寄る。
その一挙手一投足は、計算され尽くした神聖さに満ちている。
「ここは……どこ、なんですか……?」
かろうじて絞り出した声は、ひどく掠れていた。
「ここはアルディアス」
アリエルは、蒼真の目の前で片膝をつき、その視線を合わせた。
神である彼女が、人間に対してひざまずく。
それは、相手への絶対的な敬意と、無条件の受容を示す、最高の演出だ。
「魔法が存在し、人間だけでなく、エルフや獣人といった種族が手を取り合って暮らす世界です」
「魔法……」
蒼真の瞳が、ほんのわずかに、本当に微かに揺らめいた。
それは、物語の中でしか聞いたことのない、空想の言葉。
だが、目の前の光景は、その言葉に奇妙な説得力を与えていた。
「信じられないかもしれませんね。ですが、あなたにもその力は秘められているのです」
アリエルはそう言うと、そっと手を伸ばし、蒼真の胸に、その白魚のような指先を触れさせた。
瞬間、温かな、それでいて膨大なエネルギーが、アリエルの指先から蒼真の身体へと流れ込んでいく。
蒼真の身体が、びくりと震える。
彼の顔に、驚愕の色が浮かんだ。
「これ、が……魔力……?」
蒼真は、信じられないといった様子で、自分の両手を見つめている。
青白かったその手に、わずかに血の気が戻っている。
「はい。それが、あなたに与えられた聖なる力。勇者の力です」
アリエルの声は、どこまでも優しい。
だが、その完璧な微笑みの裏で、彼女は次の台詞を、最も効果的なタイミングで放つ準備をしていた。
俺が、そうプログラムしたのだから。
「そしてあなたは、その力で――魔王を倒さなければなりません」
「魔王……?」
アリエルの表情が、計算され尽くしたように、悲しげに曇った。
その青い瞳には、うっすらと涙の膜が張られている。
「はい……このアルディアスを、永遠の暗黒に染めようと企む、邪悪な存在です」
アリエルは立ち上がり、至聖所の壁に描かれたレリーフを指し示した。
そこには、巨大な魔王が街を破壊し、人々が逃げ惑う様子が、克明に描かれている。
もちろん、これも俺が創造したものだ。
「魔王の軍勢によって、多くの街が焼かれ、多くの人々がその命を奪われました。今この瞬間も、世界のどこかで、人々は魔王の脅威に怯え、苦しんでいるのです」
その声は、悲痛に満ちている。
聞く者の心を締め付ける、完璧な悲劇のヒロインの声だ。
「お、俺に……そんな、大切なことが……できるわけない……」
蒼真は、かぶりを振った。
そうだ、それでいい。それが正常な反応だ。
父親に殴られても抵抗できず、教室の隅で息を潜めているだけだった少年が、いきなり世界の命運を託されて、奮い立つはずがない。
だが、ここからが、この女神アリエルの真骨頂だ。
「いいえ、あなたなら必ずできます」
アリエルは、蒼真の言葉を、絶対的な信頼を込めた声で打ち消した。
「あなたの魂が、誰よりも清らかで、強い正義感を秘めていることを、わたくしは知っています。今はまだ、その力に戸惑っているだけ。大丈夫。あなたこそが、この世界を救う唯一の希望なのです」
その言葉は、呪いのように、蒼真の心に染み込んでいく。
誰にも認められず、存在価値を否定され続けてきた少年が、初めて与えられた、絶対的な肯定。
蒼真の暗い瞳の奥で、何かが、カチリと音を立てて動き始めたのがわかった。
俺が知っている、あの頃の俺が持っていた、心の核。
たとえ自分がどれだけ傷ついても、他人の痛みを放置できない、愚かなまでのお人好し。
そうだ。目覚めろ、橘蒼真。
お前の正義感を、今ここで呼び覚ますのだ。
「そして――」
アリエルは、とどめを刺すように、とびきりの微笑みを浮かべた。
それは、不安に震える子供を安心させる、母親そのものの笑顔だった。
「あなたには、素晴らしい仲間たちが待っています。一人で戦う必要は、決してありません」
「仲間……」
蒼真の唇から、その言葉が、まるで宝物のように零れ落ちた。
彼が生きてきた十五年間で、最も縁遠かった言葉。
「はい。あなたと共に、その重荷を分かち合い、共に笑い、共に戦ってくれる、かけがえのない仲間たちです」
「そんな人たちが……俺みたいな奴と……」
「ええ。明日、王都を訪ねなさい。そこで、運命があなたと彼らを引き合わせるでしょう。彼らは必ず、あなたを受け入れ、あなたの力になってくれます。わたくしが、保証します」
仲間。
その言葉が、蒼真の中で、魔法のように反響する。
一人じゃない。
その事実が、魔王を倒すという途方もない使命よりも、ずっと強く、彼の心を捉えていた。
俺は、その様子を静かに観測しながら、確かな手応えを感じていた。
絶望のどん底にいた少年を、一瞬で希望の舞台へと引きずり上げる。
巨大な使命という「恐怖」と、仲間という「期待」。
その二つを同時に与えることで、彼はもう、この物語から逃れることはできない。
俺の掌の上で、完璧な勇者が、今、誕生したのだ。
兜の奥で、俺は自嘲にも似た何かを感じていた。
ああ、そうだ。
俺が、本当に欲しかったのは、これなのだ。
誰かに、絶対的に肯定され、信じてもらうこと。
そして、かけがえのない仲間と、絆で結ばれること。
それを、俺は今、自分の手で、過去の自分に与えている。
なんという、滑稽で、哀れな神だろうか。
だが、構わない。
この胸の疼きが、この乾ききった魂を潤す、一滴の雫になるのなら。
俺は、この哀れな神を、演じ続けよう。
この物語が、終わる、その時まで。




