第93章
乾いた風が、錆びた鉄の匂いを運んでくる。
空は永遠に続くかのような灰色の雲に覆われ、太陽という名の恒星がこの惑星に存在したことすら、遠い神話の一節のように思えた。
足元に広がる大地は赤茶けた砂と埃に覆われ、かつてここが豊かな緑に彩られていた痕跡は、風化したコンクリートの残骸と、地中深くに埋もれた文明の骨格にしか見出すことはできない。
そんな終わってしまった世界の中心で、俺は静かにひざまずいていた。
かつて俺は橘蒼真という名だったが、今の俺をその名で呼ぶ者はいない。
人は俺をこう呼ぶ――魔王、と。
その姿は、かつての人類が抱いた恐怖の象徴そのものだろう。
身長は三メートルを優に超え、全身は生命的な曲線と無機的な鋭角が禍々しく融合した漆黒の鎧に包まれている。
それは骨格であり、皮膚であり、そして俺という存在の境界線そのものだ。
肩や肘、膝から突き出した鋭いスパイクは、触れるものすべてを拒絶するように天を衝き、滑らかな鎧の表面には、まるで深淵を覗き込むような暗黒が渦巻いている。
時折、その表面を紫電の如き魔力の光が走り、鎧の下に秘められた、計り知れない力の片鱗を覗かせていた。
頭部を覆う兜は、巨大な角を持つ獣の頭蓋骨を模している。
その眼窩の奥深く、暗闇よりもさらに暗い闇の中で、二つの紅い光点だけが、静かに、しかし決して消えることなく揺らめいていた。
それが、今の俺の「眼」だ。
目の前にあるのは、風に削られ、雨に打たれ、時の重みに耐えきれずに半分崩れ落ちた石の塊。
かつては墓標と呼ばれていたものだ。
誰を弔うためのものなのか、俺以外の誰も知ることはない。
だが、俺にはわかる。
この石の下に、俺のすべてが眠っている。
「美月……」
兜の奥から漏れ出した声は、地殻が擦れるような、低く、乾いた音だった。
「……俺は、疲れた」
誰に聞かせるでもない独白。
風がその言葉を攫い、虚空へと消していく。
ああ、そうだ。疲れたんだ。
この永劫とも思える時間の中で、俺の心はすり減り、乾ききってしまった。
お前を失った悲しみは、この身を焼き尽くすほどの灼熱となって俺を苛んだ。
その痛みだけが、俺がお前を愛していたことの証明であり、俺がまだ「人間」であることの証だった。
俺は世界中を彷徨った。
お前との思い出が残る場所を巡り、お前の面影を追い求めた。
だが、時間はあまりにも無慈悲で、お前が生きた証は、人々の記憶から、そして風景から、ゆっくりと、しかし確実に消えていった。
怒りと共にあった時期もあった。
なぜお前が死ななければならなかったのか。
なぜ俺だけがこんな力を持ち、生き残ってしまったのか。
そして、怒りの炎が燃え尽きた後に残ったのは、ただ広大な、虚無だった。
悲しみは、涸れ果てた川底のようにひび割れ、もう涙は一滴も流れなかった。
喜びは、遠い昔に見た映画のワンシーンのように色褪せ、その感覚を思い出すことすらできない。
怒りは、燃え尽きた灰となって、風に吹き散らされてしまった。
感情という名の羅針盤を失った俺は、ただの現象と化した。
新たな生命が生まれ、独自の文明を築き、やがて争い、滅びていく。
彼らが神として俺を崇めても、悪魔として俺を恐れても、俺の心には何の波紋も生まれなかった。
彼らの祈りも、呪いも、俺の漆黒の鎧を撫でる風と同じ。何の意味も持たない。
俺は、この世界の孤独な神になった。
全能でありながら、何も感じない。
永遠の命を持ちながら、生きている実感がない。
それは、死よりも残酷な罰だった。
だが、ただ一つ。
たった一つだけ、この摩耗しきった魂の核に、小さな棘のように残り続けたものがある。
漆黒の鎧に覆われた指先を伸ばし、朽ち果てた墓標のざらついた表面にそっと触れる。
冷たい石の感触が、俺という存在の輪郭を思い出させる。
「……美月」
もう一度、その名を呼ぶ。
すると、どうだ。
静まり返っていた俺の胸の奥深く、灰の下に埋もれた熾火のように、微かな、本当に微かな疼きが走るのを、感じた。
そうだ。
お前への愛だけが、残った。
それはもはや、かつてのような甘く、温かい感情ではない。
もっと執拗で、狂気に近い執着。
俺が人間であった最後の証であり、俺をこの永劫の虚無に縛り付ける、呪いそのものだ。
この感情まで失ってしまったら、俺は本当に「無」になる。
意味も価値もない、ただ存在するだけのエネルギーの塊に。
それだけは、駄目だ。
それだけは、あってはならない。
――思い出す。
異世界に召喚され、右も左もわからなかった、あの頃を。
絶望的な現実から逃げるように迷い込んだ、あの世界で。
俺は、仲間たちと出会った。
兄貴分として、いつも俺を導いてくれた、アルフレッド。
その無垢な笑顔で、俺の心を照らしてくれた、ルナ。
魔法の師として、俺の才能を信じてくれた、エリーナ。
彼らと共に笑い、泣き、戦った日々。
焚き火を囲んで語り合った夜。
凍えるようなダンジョンで背中を預け合った信頼。強大な敵を打ち破った時の、魂が震えるような達成感。
あの温かさ。
あの輝き。
それが、俺が唯一「生きていた」と断言できる時間だった。
今の俺には、そのすべてがない。
全能の力と引き換えに、俺はすべてを失ったのだ。
このまま、心が完全に風化し、「無」になるのを待つのか。
それとも……。
兜の奥の紅い光が、強く、強く輝いた。
一つの途方もない考えが、何世紀もの間、停滞していた俺の思考に、雷のように閃いた。
そうだ。
創ればいい。
俺の記憶の中にある、あの最も輝かしかった物語を。
寸分違わぬ、完璧な形で。
いや、完璧なだけでは足りない。
俺の記憶の中にある物語は、悲しみや過ちにも満ちていた。
そうではない。もっと理想的な形で。
誰も傷つかず、誰も絶望せず、誰も死なない。
ただ、温かい絆と、輝かしい希望と、心からの笑顔だけに満ちた、完璧な物語を。
その物語の中に、俺自身を置く。
もちろん、この魔王の姿ではない。
あの頃の俺。
十五歳の、まだ何者でもなかった、内向的で、けれど心の奥底に優しさと正義感を秘めていた、ただの少年。
橘蒼真としての、俺を。
彼に、俺が経験したのと同じ出会いを。
アルフレッドを、エリーナを、ルナを、俺の力で完璧に創造し、彼の仲間として与える。
俺が経験したのと同じ冒険を。
数々の試練を用意し、それを乗り越えることで、彼らが深い絆で結ばれていく様を、この目で見届ける。
これは、最後の賭けだ。
俺が創造した完璧な物語。
その中で、理想の俺が、俺の欲しかったものすべてを手に入れていく。
その様を間近で観測することで、この乾ききった俺の心に、何かが甦るかもしれない。
あの温かさのかけらでも、感じることができるかもしれない。
それは偽りの救済だろう。
所詮は、俺が創った自作自演の舞台だ。
だが、それでもいい。
この永劫の虚無に比べれば、偽りの温もりだろうと、手を伸ばす価値がある。
「もう一度……」
俺はゆっくりと立ち上がった。
三メートルを超える漆黒の巨躯が、灰色の空を背にして聳え立つ。
その影が、荒廃した大地に長く、長く伸びた。
「もう一度……あの温かさを、感じたい」
その言葉はもはや、弱々しい独白ではなかった。
この星そのものを揺るがすような、絶対者の宣言。
さあ、始めよう。
俺の、俺による、俺だけの救済の物語を。
主役は、勇者として召喚される、十五歳の橘蒼真。
俺の力が、新たな世界を産み落とす。
その産声が、この静寂しきった俺の世界に、新たな響きをもたらすだろう。




