第91章
魔物は、花の都パリを、墓標の都へと変えていた。
ルーブル美術館は、その収蔵品ごと、闇の炎に舐め尽くされて溶け落ち、凱旋門は、巨大な鉤爪の一撃で、瓦礫の山と化した。セーヌ川は、憎悪の魔力に触れ、ヘドロのように黒く濁り、淀んでいる。
破壊。破壊。そして、破壊。
自我を失った魔物は、ただ、その本能のままに、かつて人間が築き上げた文明の証を、一つ、また一つと、踏み潰していくだけだった。
その、黒い背中に、天から、数十の、死の流星群が降り注いでいることにも、気づかずに。
アメリカから。ロシアから。中国から。
人類の、最後の祈りと、そして呪いを乗せた、数十発の大陸間弾道ミサイルが、パリ上空へと、寸分の狂いもなく、同時に到達した。
その弾頭には、太陽を何十個も凝縮したかのような、凄まじい破壊エネルギーが秘められている。
魔物は、その時、初めて、天を仰いだ。
その黒い瞳に、空を埋め尽くす、無数の光の点が映る。
それは、脅威。
それは、敵。
その魂に刻み込まれた、唯一の行動原理が、魔物を突き動かした。
――排除せよ。
魔物は、天に向かって、咆哮した。
そして、その全身から、ありとあらゆる属性の魔法を、無差別に、無秩序に、天へと向かって放った。
炎の嵐。氷の吹雪。雷の槍。闇の波動。
神の如き力が、人類の、最後の希望を、迎え撃つ。
そして、二つの、決して、出会ってはならない力が、パリの上空、高度一万メートルで、激突した。
◇
その、歴史的な瞬間を、地球上空四百キロの軌道上から、見つめている者たちがいた。
国際宇宙ステーション(ISS)。
人類に残された、最後の、宇宙に浮かぶ箱舟。
「……船長! エネルギー反応が、異常です!」
船内の管制室で、若いオペレーターが、悲鳴のような声を上げた。
船長のデビッド・アンダーソンは、その報告に、静かに頷いた。
NASAのベテラン宇宙飛行士である彼の顔には、もう、何の感情も浮かんでいなかった。
ただ、目の前のモニターに表示される、信じがたいデータを、歴史の証人として、見届けるだけ。
「……何が、起きているんだ……?」
「分かりません! 核弾頭が、目標に到達する直前、目標から放たれた、未知のエネルギーと接触! その瞬間、核分裂反応が……いえ、これは、核分裂ではない! 核エネルギーと、未知の力が……ゆ、融合しています!」
モニターに映し出された、パリ上空。
そこでは、悪夢のような、光景が繰り広げられていた。
核爆発の閃光が、魔法の奔流と、混じり合っている。
赤と、青と、黒と、白。ありとあらゆる色の光が、まるで、巨大な万華鏡のように、渦を巻き、互いを喰らい合い、そして、全く新しい、この世の物とは思えない、禍々しい、虹色のエネルギーへと、変貌していく。
連鎖核分裂と、魔力増幅の、悪魔のフィードバックループ。
科学と、魔法。
人類の、最大の罪と、神の、最大の奇跡が、最悪の形で、融合したのだ。
その、虹色の光は、一瞬にして、巨大な光の球体となり、凄まじい速度で、膨張を始めた。
それは、もはや、爆発ではなかった。
世界の、死。
星の、悲鳴だった。
◇
パリ郊外の街。
八歳の少女、エミリー・スミスは、母親の腕の中で、わんわんと泣きじゃくっていた。
「ママ……怖いよぉ……。お外、どうなってるの……?」
母親は、答えない。
いや、答えられない。
彼女は、ただ、娘の体を、きつく、きつく抱きしめることしかできなかった。
その時、空を虹色の光が包み込んだ。
それは、とても、綺麗で。
そして、あまりにも、残酷な、光だった。
「……エミリー。愛してるわ」
母親が、最期の言葉を、娘の耳元で、囁いた。
次の瞬間、母娘は、その家族の愛ごと、光の奔流に、飲み込まれていった。
◇
「……地球が……」
国際宇宙ステーションの、アンダーソン船長が、絶望に、かすれた声で呟いた。
彼の目の前の窓の外には、信じがたい光景が広がっていた。
彼らの故郷である、青く、美しい惑星が、虹色の光に、包まれていく。
「……光に……飲み込まれていく……。神よ……我々、人類は……いったい、何を……」
それが、人類が、宇宙に残した、最後の通信だった。
次の瞬間、膨張したエネルギー波が、国際宇宙ステーションを直撃し、人類の最後の箱舟は、宇宙の塵と化した。
◇
光は、全てを、平等に、無に帰した。
ニューヨークも、ロンドンも、モスクワも、北京も、東京も。
全ての都市が、一瞬にして、蒸発し、消滅した。
ヒマラヤの山々が、砂のように崩れ落ち、太平洋の海水が、一瞬にして沸騰し、蒸発していく。
大陸が、ビスケットのように砕け、灼熱のマントルの中へと沈んでいく。
大気は、燃え上がり、空は、永遠の闇に閉ざされた。
かつて、生命に満ち溢れていた、青い惑星は、わずか数分で、その全ての輝きを失い、ただの、灰色の、死の惑星へと、その姿を変えた。
文明の痕跡すら、何一つ、残さずに。
完全な、破滅。
完全な、死だった。
だが。
その、世界の終わりの、中心で。
全ての破壊エネルギーが、生まれ、そして渦巻いた、その爆心地で。
たった一つだけ、生き残ったものが、いた。
黒い魔物。
彼は、自らが放った魔力と、核エネルギーが融合して生まれた、破壊の嵐の中心で、傷一つなく、ただ、静かに、浮かんでいた。
その、黒い瞳が、ぴくりと、動いた。
何十億という、魂の断末魔が、彼の意識を、激しく揺さぶる。
愛する者を失った、個人的な絶望。
そして、世界そのものを、自らの手で滅ぼしてしまった、宇宙的な、絶望。
二つの、巨大すぎる絶望が、彼の魂の中で、衝突し、そして、奇跡を起こした。
破壊され、消滅したはずの、人格の欠片が、その衝撃で、再び、結びつき始めたのだ。
記憶が、戻る。
感情が、戻る。
橘蒼真という、一人の人間の、意識が。
「……何が……」
その口から、意味のある、人間の言葉が漏れた。
「……何が……起こったんだ……?」
蒼真の意識が、ゆっくりと、しかし、確実に、覚醒し始めていた。
彼は、ゆっくりと、周囲を見回した。
だが、そこには、もう、何もなかった。
青い空も、緑の大地も、温かい太陽も。
ただ、どこまでも、どこまでも、灰色の、死んだ荒野が、広がっているだけ。
静寂。
完全な、無音の世界。
星の、墓場。
彼は、そこに、いた。
破壊の化身と化した魔物は、ただ、虚空に浮かんでいた。
その足元には、かつて、青い惑星と呼ばれたものの、無残な亡骸が広がっているだけ。
どこまでも続く、灰色の荒野。
砕け散った大陸の残骸が、黒い煙を上げるマグマの海に、墓標のように突き出している。
空は、厚い、鉛色の雲に覆われ、太陽の光も、星の輝きも、永遠に届かない。
音は、ない。
風の音も、鳥の鳴き声も、波の音さえも。
ここは、星の墓場。
そして、この、死の世界の、唯一の住人として、彼は、そこにいた。
破壊衝動の嵐が、過ぎ去った後。
その魂の奥底で、何かが、芽生え始めていた。
それは、一つの、小さな、疑問。
――俺は、ここで、何をしている?
その疑問は、さざ波のように、彼の虚無の心に広がっていった。
そして、さざ波は、やがて、記憶の濁流となって、彼の意識を、否応なく飲み込んでいく。
最初に蘇ったのは、温もりだった。
腕の中に、確かにあったはずの、愛しい人の、温もり。
次に蘇ったのは、声だった。
――『愛してる』
血を吐きながら、それでも、最後に、微笑んでくれた、少女の声。
そして、最後に蘇ったのは、絶望だった。
彼女の体から、光が消えていく、あの瞬間。
腕の中で、命が、冷たくなっていく、あの感触。
「……あ……」
魔物の喉から、初めて、意味のある、人間の声が漏れた。
「……み……づき……?」
その名を口にした瞬間、洪水のように、全ての記憶が、彼の魂を直撃した。
異世界での、偽りの希望。
現実世界での、復讐の連鎖。
ハーモニーバレーで手に入れた、束の間の平穏。
そして、自分を庇って、銃弾に倒れた、美月の、最期の微笑み。
「そうだ……美月が……」
魔物の、いや、橘蒼真の意識が、完全に覚醒した。
「美月が、死んで……俺は……」
彼は、自らの、その禍々しい、黒い腕を見下ろした。
鋼さえも切り裂く、鋭い鉤爪。黒い結晶と化した、醜い皮膚。
そして、彼は、理解した。
自分が、何をしたのかを。
愛する者を失った絶望の果てに、その怒りと憎しみの全てを、この世界そのものに、ぶつけてしまったのだということを。
「……俺は……何を……してしまったんだ……?」
その声は、あまりにも、か細く、そして、虚ろだった。
彼は、ゆっくりと、地上へと降下した。
そこは、かつて、廃工場があった場所。
彼が、その手で、世界の終わりを始めた、始まりの場所。
周囲には、見渡す限り、灰色の、死の大地が広がっているだけ。
彼は、歩いた。
一歩、また一歩と、その巨大な、魔物の足で、自らが作り出した、墓標の上を。
やがて、彼は、見つけた。
広大な、破壊の痕跡の中で、たった一箇所だけ、奇跡のように、傷一つなく残された、小さな空間を。
彼が、意識を失う直前に、無意識に張った、守りの結界。
そして、その中心に。
まるで、眠っているかのように、安らかな顔で、美月が、横たわっていた。
その白いワンピースは、血で赤黒く染まっていたが、その表情は、苦痛から解放されたかのように、穏やかだった。
蒼真は、その場に、崩れるように、膝をついた。
その、魔物の、巨大な体で、少女の、小さな亡骸の前に。
彼は、震える、その鉤爪のようになった指を、彼女の、冷たい頬に、そっと、伸ばした。
触れるのが、怖かった。
この、醜い、破壊の化身となった自分の手が、彼女の、聖なる亡骸を、汚してしまうのではないかと。
だが、彼は、触れた。
その、冷たい、陶器のような肌に。
その瞬間、彼の、魔物の瞳から、ぼろり、と、黒い、粘液のような涙が、こぼれ落ちた。
「……ごめん……」
声が、出ない。
「……ごめんな……美月……」
守りたかった。
ただ、この腕の中にある、ささやかな幸せを、守りたかっただけなのに。
そのために、力を振るった。
そのために、世界を、敵に回した。
その結果が、これだ。
守るべきだった、たった一人の人間さえ、守れず。
そして、その絶望の果てに、この星の、全ての命を、奪い去ってしまった。
なんという、皮肉。
なんという、愚かな、結末。
罪悪感が、宇宙そのものよりも重い質量となって、彼の魂を、押し潰していく。
彼は、空を仰いだ。
だが、そこには、もう、青い空はない。
太陽は、厚い、死の雲の向こうで、灰色に霞んでいる。
音のない世界。
色のない世界。
生命のない世界。
この、無限の、死の広野に、生きているのは、自分、ただ一人。
永遠の、孤独。
それこそが、彼が、自らに下した、罰だった。
「……ああ……ああああ……あああああああああああああああああああ……」
彼は、泣いた。
声にならない、声で。
涙にならない、涙を、流して。
愛する人の亡骸の前で、永遠に許されることのない罪を背負った、一匹の魔物が、ただ、絶望に、打ちひしがれていた。




