第90章
世界の終わりが始まってから、六時間が経過していた。
その六時間で、人類は、自らが食物連鎖の頂点ではなかったという、残酷な事実を叩きつけられた。
ワシントンD.C.・ホワイトハウス。
その地下深くに存在する、国家安全保障の心臓部――危機管理室は、世界の終わりを見届けるための、最前列の特等席と化していた。
壁一面に設置された巨大なスクリーンには、世界各地から送られてくる、地獄の映像が、無慈悲に、そしてリアルタイムで映し出されている。
炎上するパリのエッフェル塔。
氷河と化したモスクワの赤の広場。
そして、巨大なクレーターだけが残された、東京の新宿。
黒い魔物は、気まぐれな神のように、空間を跳躍し、人類の文明を、まるで子供の玩具のように、一つ、また一つと、破壊し続けていた。
「……以上が、現状です」
重苦しい沈黙を破ったのは、ロバート・ケネディ国防長官だった。
軍事戦略のエキスパートとして、そのキャリアの全てを国家に捧げてきた、冷静な現実主義者だ。
彼の顔には、疲労の色は微塵もない。
ただ、人類の敗北を分析する、機械のような冷徹さがあるだけだった。
「ニューヨーク、ロンドン、パリは、事実上、地図から消滅しました。現在、目標はモスクワ上空に出現。我が国のステルス爆撃機、ロシアの最新鋭戦闘機Su-57、その全てによる迎撃を試みましたが……結果は、ご覧の通りです」
スクリーンに、ミサイルが魔物の手前で空しく爆発し、戦闘機が蝿のように叩き落とされる映像が、無音で再生される。
「……通常兵器は、全て無効。これは、もはや戦争ではない。一方的な、駆除です」
ケネディは、会議室の中央に座る男へと、その視線を向けた。
「大統領。残された選択肢は、一つしかありません」
その言葉は、死刑宣告にも等しい重みを持っていた。
「――核兵器の使用です」
会議室の主、アメリカ合衆国大統領ジェームス・マクドナルドは、固く目を閉じていた。
危機管理能力に長けた、歴戦の政治家。
だが、今の彼の顔には、指導者としての威厳はなく、ただ、一人の人間の、深い苦悩が刻まれているだけだった。
深く刻まれた皺、白髪の混じった髪。
その全てが、この六時間で、さらに十年は老け込んだかのように見えた。
「……核を、使えば……」
マクドナルドが、かすれた声で呟いた。
「我々が守るべき、罪のない市民も、数百万、いや、数千万単位で巻き込むことになる。放射能で汚染された死の大地が、広がるだけだ。それは、我々自身の手で、世界を滅ぼすことに他ならない」
彼は、机の上に置かれた、一枚の写真立てに目を落とした。
そこには、満面の笑みを浮かべる妻と、二人の孫の姿が写っている。
先週、孫の誕生日に撮ったばかりの写真だ。
この子たちの未来を守るために、自分は、この席にいるはずだった。
だが、ケネディは、その感傷を、冷たい事実で切り捨てた。
「ですが、使わなければ、人類はあと数時間で、確実に絶滅します。選択の余地はありません。百万の命を犠牲にして、七十億の命を救うか。あるいは、七十億の命と共に、潔く滅びるか。――決断を、ミスター・プレジデント」
その、絶望的な議論は、アメリカだけの話ではなかった。
モスクワ・クレムリン。
重厚な執務室で、ウラジミール・ペトロフ大統領もまた、同じ映像を、氷のように冷たい目で見つめていた。
元KGB出身の、鉄の男。
その強面の外見と、冷徹な思考は、西側諸国から長年恐れられてきた。
だが、彼の側近が「大統領、我が国の核戦力で、単独でも……」と進言した時、ペトロフは、静かにそれを遮った。
「……無意味だ。この脅威は、もはや、一国の、あるいは一つのイデオロギーの問題ではない」
彼は、窓の外に広がる、雪に覆われたモスクワの街並みを見つめた。
その街が、今、まさに、空の魔物によって蹂躙されようとしている。
「……アメリカと、協調する。これは、人類の、生存を賭けた戦いだ」
その決断に、驚きや反対の声を上げる者はいなかった。
誰もが、理解していた。
国家のプライドや、過去の対立など、絶対的な「死」の前では、何の意味もなさないということを。
北京、中南海。
李偉強国家主席は、静かにお茶を啜っていた。
常に冷静で、物事を多角的に判断する、慎重派の指導者。
彼は、この六時間、最後まで、外交的な解決――あるいは、未知の存在との対話の可能性を模索し続けていた。
だが、彼の前にあるモニターに、パリのノートルダム大聖堂が、光の粒子となって消滅していく映像が映し出された時、彼は、静かに、湯呑を置いた。
彼の側近が、固唾をのんで、主の言葉を待つ。
「……アメリカ、およびロシアより、核兵器の共同使用に関する、緊急要請が入っております。主席……」
李は、ゆっくりと立ち上がった。
その知的で穏やかだった顔には、深い諦観の色が浮かんでいた。
「……人類は、常に、最も愚かな選択を、最後の希望としてきた。皮肉な話だ」
彼は、重い、重い息を吐き出した。
「――核兵器の使用に、同意する。全人類の、総意として、だ」
慎重派の指導者が下した、最後の決断。
それは、人類が、一つの意志の下に、自滅への引き金を引くことを、決定した瞬間だった。
数分後。
ホワイトハウスの危機管理室のメインスクリーンが、分割され、世界各国の首脳たちの、苦悩に満ちた顔が映し出された。
アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランス、インド、日本……。かつては、国益を巡って激しく対立した指導者たちが、今、一つの、共通の絶望を分かち合っていた。
マクドナルド大統領が、全人類を代表して、その歴史的決断を、震える声で告げた。
「……我々は、本日、ここに、人類の生存のため、史上初となる、国際協調核攻撃を実行することを、決定した」
彼の言葉に、誰も、反論はしない。
ただ、重い沈黙が、世界を繋ぐ回線を支配していた。
「……神よ、我々を、お許しください」
マクドナルドは、祈るように呟くと、目の前にある、アタッシュケースを開いた。
そこには、ただ一つだけ、赤いボタンが、鎮座していた。
世界の運命を左右する、核ミサイルの、発射ボタン。
彼は、そのボタンに、震える手を、ゆっくりと伸ばした。
同じ瞬間。
モスクワのクレムリンで、ペトロフ大統領が、同じように、赤いボタンに、その無骨な指をかけた。
「――祖国のため、そして、人類のため」
北京の中南海で、李主席が、静かに、赤いボタンに、その知的な指を置いた。
「――これが、最後の、手段だ」
三人の指導者が、同時に、目を閉じた。
そして、全人類の、罪と、希望と、そして絶望を、その一身に背負い。
彼らは、同時に、そのボタンを、深く、深く、押し込んだ。
その瞬間、世界各地の、地下深くのサイロから。
紺碧の海を潜航する、原子力潜水艦から。
成層圏を飛行する、戦略爆撃機から。
数十発の、大陸間弾道ミサイルが、一斉に、その尾に、灼熱の炎をまとって、大空へと舞い上がった。
人類が、その歴史の中で生み出した、最も愚かで、最も強大な力。
その全てが、今、たった一体の、哀れな魔物を滅ぼすためだけに、放たれた。
それは、人類の、最後の抵抗。
そして、自らの手で、世界を焼き尽くしかねない、絶望的な、最後の希望だった。




