第89章
蒼真の心の世界で、唯一、光を放っていた太陽が、永遠に、その輝きを失った。
後に残されたのは、絶対的な虚無。
そして、その虚無から生まれる、純粋な、意味を持たない、破壊への渇望だけ。
彼の腕の中で、美月の亡骸は、もう、温かくはなかった。
蒼真の人間としての、最後の繋がりが、ぷつり、と切れた。
「……ア……アア……アアアア……」
彼の喉から漏れ出したのは、もはや、人間の声ではなかった。
魂が、その形を保てずに、崩壊していく音。
蒼真の体が、ギシギシと、ありえない音を立てて変貌を始めた。
人間のものだった皮膚は、黒い結晶のように硬化し、その表面に、まるで溶岩が冷え固まったかのような、禍々しい文様が浮かび上がる。
背骨が、皮膚を突き破り、天を衝くような、歪な骨の翼となって伸びていく。
指は、鋼さえも切り裂く、鋭い鉤爪へと変わり、その顔は、もはや、かつての優しい青年の面影を、どこにも残してはいなかった。
後に残されたのは、愛する者を失った絶望だけを、その存在理由とする、一体の哀れな魔物。
魔物は、その黒い瞳で、腕の中に横たわる亡骸を、最後に見つめた。
その魂の奥底、破壊衝動の嵐の中心で、ほんの一瞬、ただの一瞬だけ、懐かしい、温かな光が灯ったような気がした。
――『愛してる』
少女が、最期に残した言葉。
その言葉の意味を、魔物は、もう理解できなかった。
だが、その亡骸だけは、決して、傷つけてはならない。
魔物は、その本能に従い、そっと、美月の亡骸を、崩壊する工場の、最も傷の少ない床の上へと横たえた。
そして、まるで、彼女が安らかに眠れるように、周囲に、小さな、守りの結界を張った。
それが、橘蒼真という人間が、この世で行った、最後の、人間らしい行為だった。
そして、魔物は、天を仰いだ。
その黒い瞳に、憎しみの対象が映る。
――この、世界、そのものが。
次の瞬間、魔物の姿が、空間の裂け目と共に、その場から、かき消えた。
◇
ニューヨーク・マンハッタン。
世界の経済と文化の中心地は、その日も、変わらぬ喧騒に満ちていた。
タイムズスクエアの巨大な電光掲示板が、絶え間なく最新のニュースと広告を垂れ流し、黄色いタクシーの群れが、クラクションを鳴らしながら、ひしめき合っている。誰もが、自分の日常が、明日も、明後日も、永遠に続くと信じて疑わなかった。
「――さて、次のニュースです。国連本部前では、環境問題に関するデモが行われており、一部が暴徒化する……」
CNNのレポーター、ジェシカ・ブラウンは、国連本部前から、よどみない口調で、現場の状況を伝えていた。
数々の戦場や災害現場を取材してきた、彼女は、その美貌と、どんな状況でも冷静さを失わないプロ意識で、全米でも有数のジャーナリストとしての地位を確立していた。
その彼女が、ふと、言葉を詰まらせた。
空気が、震えた。
マンハッタンの摩天楼群の、ちょうど中心。
その上空の空間が、まるで、黒い絵の具を垂らした水面のように、ぐにゃり、と歪んだのだ。
「……カメラ! カメラ、上に向けて!」
ジェシカが、咄嗟に叫ぶ。
カメラが、空を捉えた、その瞬間。
黒い裂け目から、この世のものとは思えない、「何か」が、ゆっくりと姿を現した。
黒い結晶のような外皮に覆われ、背中からは、天を突くような、禍々しい骨の翼が生えている。
それは、神話に登場する、悪魔。
あるいは、地獄から這い出してきた、破壊の化身。
その「魔物」が、マンハッタンの摩天楼の只中に、突如として、出現した。
「……な……何、あれは……!?」
道行く人々が、空を指差し、呆然と立ち尽くす。
そして、魔物が、その黒い瞳を、地上に向けた。
グオオオオオオオオオオオオオオッ!!!
その咆哮は、全てのビルの窓ガラスを、一斉に粉々に砕け散らせるほどの、超音波の衝撃波だった。
パニックが、伝染する。
「逃げろぉぉっ!」
「モンスターだ!」
悲鳴と怒号が、街を埋め尽くし、人々は、我先にと逃げ惑う。
平和な大都市は、一瞬にして、地獄の釜の底へと叩き落とされた。
ジェシカは、震える唇を、ぐっと噛み締めた。
恐怖で、足がすくむ。
だが、彼女は、ジャーナリストだった。
「……こちら、ニューヨーク、国連本部前です! 現在、マンハッタン上空に、正体不明の、巨大な未確認生命体が出現! 繰り返します! マンハッタン上空に、巨大な……」
彼女のレポートを遮るように、魔物が、その鉤爪のようになった右腕を、ゆっくりと振り上げた。
その爪の先に、凝縮された闇のエネルギーが、黒い雷となって、渦を巻く。
狙いは、ニューヨークの象徴、エンパイア・ステート・ビル。
次の瞬間、闇の雷が、一筋の黒い槍となって、ビルへと放たれた。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
アメリカの誇りの象徴は、その中腹から、まるで子供が砂の城を崩すかのように、いともたやすく、へし折れた。
ビル上部が、ゆっくりと傾き、周囲のビル群を巻き込みながら、凄まじい轟音と共に、地上へと崩落していく。
大規模な地震のような揺れが、ジェシカの足元を襲う。
「……これは……これは、現実なのでしょうか……! エンパイア・ステート・ビルが……ビルが……!」
彼女の声は、もはや、プロのレポーターのものではなかった。
目の前の、悪夢のような光景を信じられない、一人の人間の、絶望的な悲鳴だった。
魔物の破壊は、止まらない。
その口から、煉獄の劫火が、まるでナパーム弾のように、セントラルパークへと吐き出された。
都会のオアシスは、一瞬にして、火の海と化し、緑の楽園は、黒い炭の墓標へと変わる。
骨の翼が、一度、羽ばたいた。
すると、超巨大な竜巻が発生し、ブルックリン橋を、まるでマッチ棒のように、へし折り、吹き飛ばした。
橋の上にいた、何千台という車と、何万人という人々が、悲鳴を上げる間もなく、イーストリバーの濁流へと飲み込まれていく。
アメリカ軍が、ようやく、迎撃を開始した。
エイブラムス戦車が、轟音を立てて砲弾を放ち、F-22戦闘機が、空対空ミサイルを撃ち込む。
だが、その全てが、魔物の周囲に張られた、不可視の障壁に弾かれ、空しく夜空の花火と化す。
魔物は、煩わしそうに、地上を一瞥した。
そして、ただ、その腕を、軽く、一振りしただけ。
それだけで、数十台の戦車が、紙屑のように宙を舞い、互いに叩きつけられ、鉄の塊となって炎上した。
軍事力の、完全な無効化。
人類の、完全な敗北だった。
「……信じられません……! 我が国の、世界最強の軍隊が……全く、歯が立ちません……!」
ジェシカの絶望的な実況が、全世界へと配信されていく。
その時、カメラの前で、魔物の姿が、再び、空間の裂け目と共に、かき消えた。
「……消えた……? どこへ……?」
一瞬の静寂。
だが、それは、さらなる絶望への、序曲に過ぎなかった。
数秒後、ジェシカのイヤーピースに、ロンドンの支局から、パニックに満ちた声が飛び込んできた。
《大変だ! あの、ニューヨークの化け物が……今、ロンドンの、ビッグベンの前に……!》
「……なんですって……!?」
ジェシカは、自分の耳を疑った。
国際中継の映像が、ロンドンへと切り替わる。
そこには、ニューヨークを破壊し尽くした、あの黒い魔物が、ウェストミンスター宮殿の時計塔、ビッグベンの前に、悠然と佇んでいる姿が映し出されていた。
「……破壊が……世界規模に、拡大しています……!」
ジェシカの、かすれた声が、全世界に響き渡る。
◇
魔物が、天を仰ぐ。
漆黒の雷が、天から落ち、ビッグベンを直撃した。
英国の象徴は、轟音と共に、瓦礫の山と化す。
魔物が、テムズ川に、その手をかざす。
すると、雄大な川の流れが、一瞬にして、白く凍り付いていった。
ロンドン市民が、恐怖に怯え、逃げ惑う。
ニューヨーク、そして、ロンドン。
世界の終わりが、始まった。
それは、愛する者すべてを失った、一匹の哀れな魔物が奏でる、世界への、鎮魂歌だった。




