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第88章

 数十の銃口が、たった一人の、無力な青年へと向けられている。

 カチャリ、という、引き金に指がかかる、冷たい金属音。

 

 それは、死の宣告。

 科学が、魔法に下した、絶対的な死刑宣告だった。

 

 蒼真は、動かなかった。

 魔力を失った今、彼にできることは何もない。


 (……ごめんな、美月。守るって、約束したのに)

 

 心の中で、血を吐くような謝罪を繰り返す。

 だが、その時。


「――やめてぇぇぇぇぇぇっ!!」


 絶叫と共に、美月がその身を躍らせた。

 

 そして、兵士たちが引き金を引く、そのコンマ数秒の刹那。

 彼女は、蒼真の前に、そのか細い体で、立ちはだかった。

 

 まるで、聖母が、その子を守るように。

 彼女は、蒼真の盾となったのだ。


 ダダダダダダダダダダダダッ!!!


 数十条の銃声が、一つの巨大な轟音となって、廃工場全体を揺るがした。

 マズルフラッシュが、闇を、悪夢のように何度も照らし出す。

 

 放たれた鉛の弾丸は、非殺傷弾などではなかった。

 ハリスの命令を無視した、あるいは、興奮した兵士が撃った、紛れもない、殺意の塊。

 その全てが、美月の、華奢な体に吸い込まれていった。


「――え……?」


 蒼真の耳に届いたのは、美月の、か細い、吐息のような声。

 彼女の白いワンピースの胸元に、次々と、赤い花が咲いていく。

 

 時間が、止まった。

 いや、蒼真の世界だけが、停止した。

 

 美月の体が、スローモーションのように、ゆっくりと、彼の胸へと倒れ込んでくる。

 ずしり、とした、命の重み。

 

 温かい、彼女の体温。

 そして、鼻を突く、鉄錆のような、甘い、血の匂い。

 

「……み……づき……?」

 

 蒼真は、自分の腕の中にいる、温かい存在が、信じられなかった。

 何が、起きたのか、理解できなかった。

 

「美月……! 美月っ!」

 

 ようやく、彼の脳が、目の前の現実を認識する。

 腕の中の美月は、ぐったりと力を失い、その口からは、ゴボリ、と赤黒い血の塊が溢れ出していた。

 

「あ……蒼真……くん……」

 

 彼女が、途切れ途切れに、最期の言葉を紡ごうとする。

 

「喋るな!  俺の魔法で……そうだ、魔法で……!」

 

 蒼真は、必死に、体内の魔力を探った。

 だが、そこにあるのは、空っぽの、虚無だけ。

 

「なんで……なんでだっ! 美月が、美月が死んじまうだろうがぁっ!」


 美月は、そんな彼の頬に、震える手を、そっと伸ばした。

 その手は、もう、氷のように冷たくなっていた。

 

 彼女は、血を吐きながら、微笑んだ。

 それは、蒼真が、世界で一番好きだった、優しい微笑みだった。

 

「美月……! 俺を一人にしないでくれ……!」

「……愛して……る……。あなたと……過ごした……時間……が……私の……宝物……」

 

 それが、最後の言葉だった。

 美月の瞳から、すうっと、光が消えていく。

 彼女の頬に添えられていた手が、力なく、だらりと垂れ下がった。

 

 命の灯火が、消えた。


 しん、と。

 世界から、音が消えた。

 蒼真の腕の中には、ただ、急速に冷たくなっていく、愛する人の亡骸だけが残された。

 

 永遠に続くかと思われた、静寂。

 それを破ったのは、蒼真の、魂そのものが引き裂かれるような、慟哭だった。


「美月ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」


 その絶叫は、もはや、ただの悲しみではなかった。

 愛を、希望を、未来を、世界の全てを、根こそぎ奪われた魂が、その存在の全てをかけて放つ、破滅への序曲。

 

 蒼真の心の中で、最後の、か細い理性の糸が、ぷつり、と音を立てて切れた。

 彼の内側で、絶望と、怒りと、そして底なしの憎悪が、限界を超えた感情エネルギーとなって、爆発した。


 バチイイイイイイイイイイイイイイイインッッッ!!!


 蒼真の体から、凄まじい衝撃波が迸った。

 それは、物理的な力ではない。

 純粋な感情の奔流。

 

 工場の中心で、紫色の光を放っていた魔力無効化装置が、その衝撃波に耐えきれず、甲高い悲鳴を上げた。

 超伝導コイルが火花を散らし、量子コンピューターのモニターが、一斉に砕け散る。

 

「なっ……!? フィールドが……不安定に……!?」

 

 ヴァシリエフが、信じられないという表情で叫んだ。

 彼女は、最後まで理解できなかった。


 科学は、魔力を解析し、無力化することに成功した。

 だが、科学は、愛する者を失った人間の「魂の絶叫」までは、計算に入れることができなかったのだ。

 

 装置は、完全に沈黙した。

 そして、檻から解き放たれた、神の力が、再び、その主の元へと帰ってきた。


 蒼真の全身から、黒い嵐が、奔流となって噴き出した。

 それは、もはやオーラなどという生易しいものではない。

 

 空間そのものを侵食し、光さえも飲み込む、絶対的な闇。

 

 廃工場全体が、その凄まじい魔力に耐えきれず、ギシギシと悲鳴を上げる。

 蒼真は、ゆっくりと顔を上げた。

 

 その瞳は、もはや人間のそれではない。

 憎悪と虚無が渦巻く、二つの黒い太陽。

 

「……お前らを……」

 

 その声は、地獄の底から響いてくるかのように、低く、歪んでいた。

 

「……絶対に……許さない……」

 

 ハリス大佐は、その尋常ならざる気配に、本能的な恐怖を感じた。

 

「撃て! 撃ち殺せ! 今すぐだ!」

 

 兵士たちが、再び銃口を向ける。

 だが、もう遅かった。

 

 蒼真が、ただ、彼らを睨みつけただけ。

 それだけで、数十名の兵士たちの体は、見えざる力によって、ぐしゃり、と音を立てて圧壊した。

 肉も、骨も、装備も、全てが、一つの小さな肉塊へと圧縮され、床に無残な染みを作った。


 蒼真の視線が、二階の観察室へと向けられる。

 ハリスと、ヴァシリエフへと。

 

「ひっ……!」

 

 ヴァシリエフが、初めて、科学者としてではない、一人の人間としての、純粋な恐怖の悲鳴を上げた。

 ハリスは、最後の力を振り絞り、腰の拳銃を抜いた。

 

「化け物が……!」

 

 だが、彼が引き金を引くよりも早く、二人の体が、黒い炎に包まれた。

 それは、魂そのものを焼き尽くす、決して消えることのない呪いの炎。

 

「ぎゃあああああああああああっ!」

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!」

 

 二人の断末魔の叫びは、数秒も続かなかった。

 黒い炎は、彼らの肉体だけでなく、その存在の記録さえも、この世から完全に消し去っていった。


 全ての元凶が、消えた。

 だが、蒼真の心は、晴れない。

 それどころか、その虚無は、さらに深く、暗くなっていく。

 

 彼は、腕の中の、冷たくなった美月の亡骸を、そっと抱きしめた。

 その瞬間、彼の人間としての感情が、完全に、破綻した。

 

 愛も、悲しみも、怒りさえも、その行き場を失い、ただ、純粋な、意味のない、破壊エネルギーへと転化していく。

 

「……ああ……あ……」

 

 彼の体が、変質を始めた。

 皮膚が、黒い結晶のように硬化し、ひび割れていく。

 

 彼は、もはや、人間ではない。

 愛を失い、ただ、破壊の本能のみで動く、哀れな魔物。


 ゴゴゴゴゴゴ……!

 

 廃工場が、彼の制御を失った魔力に耐えきれず、崩壊を始めた。

 天井が落ち、壁が崩れ、鉄骨が飴のように捻じ曲がっていく。

 

 その、世界の終わりのような光景の中で。

 魔物へと変貌しつつある蒼真は、ただ、腕の中の、美月の亡骸だけを、壊れ物を扱うかのように、優しく、優しく抱きしめていた。

 

 それが、彼に残された、最後の、そして唯一の、人間性の証だった。

 世界が、終わる。

 

 彼の、心と共に。


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