第87章
その場所は、ハーモニーバレーから北へ十数キロ離れた、忘れ去られた廃工場だった。
かつては地域の経済を支えたであろう巨大な建造物も、今では錆びついた鉄骨を無様に晒し、割れた窓ガラスからは、月明かりと、死のように冷たい夜風が吹き込んでいる。
床には厚く埃が積もり、鼻を突くのは、カビと、オイルと、そして絶望の匂い。
だが、その広大な工場の中心だけは、異質だった。
まるで、最新鋭の研究施設の一部を、そのまま切り取って設置したかのように。
ゴオオオオオォォ……。
直径五メートルはあろうかという、巨大な円形の装置が、低い唸りを上げて稼働していた。
その表面は、鏡のように磨き上げられた未知の合金で覆われ、複雑に絡み合った超伝導コイルが、内部で青白い光を明滅させている。
装置の基部からは、液体ヘリウムによる冷却で生じた白い冷気が、霧のように床を這っていた。
これは、兵器だ。
人類の科学の粋を集め、神を殺すためだけに創り上げられた、究極の最終兵器。
『魔力無効化装置』
「……完璧です。非の打ち所がない」
装置の傍らに立つ、ドクター・エレナ・ヴァシリエフが、恍惚とした表情で呟いた。
その灰色の瞳は、自らが創り出した悪魔の機械を、まるで愛しい我が子のように見つめている。
彼女の隣には、鋼のように冷たい表情のハリス大佐と、コンソールで最終チェックを行うトンプソン中佐が控えていた。
「本当に、こんなもので、あの化け物を止められるのかね? 博士」
ハリスが、疑念を隠そうともせずに尋ねる。
彼の信じるものは、銃弾と爆薬の威力だけだ。
目に見えない波で、あの神の如き力を無効化できるとは、にわかには信じがたい。
その侮辱的な言葉に、ヴァシリエフは初めて、ハリスへとその冷たい視線を向けた。
「私が、彼の戦闘データから導き出した結論は、あまりにもシンプルなもの。彼の力の正体、それは特定の周波数を持つ、観測可能な『量子波動エネルギー』。ただ、それだけのことです」
ヴァシリエフは、まるで子供に言い聞かせるように、その指を一本立てた。
「物理学の基本です、大佐。波には、波をぶつければいい。この装置は、半径百メートル内に設置された六十四個の量子センサーで、彼の放つ量子の波動――その周波数、振幅、位相を、リアルタイムで完全に捉えます」
彼女は、装置へと向き直り、その滑らかな表面を愛おしそうに撫でた。
「そして、この心臓部に搭載された量子コンピューターが、0.001秒以内に、彼が放つ波動と、全く同じ振幅・周波数で、位相だけを百八十度反転させた『逆位相波動』を生成するのです」
その説明に、トンプソンが息をのんだ。
「……まさか、干渉させて、相殺を……?」
「その通りです、中佐!」
ヴァシリエフは、甲高い声で笑った。
「プラスの波と、マイナスの波。二つが衝突すれば、どうなるか? 答えは『ゼロ』。彼の魔力は、このフィールド内では、量子レベルで完全に中和され、霧のように消え失せる。彼はただの人間に戻るのです」
その狂信的な瞳が見ているのは、未知なる自然現象としての『魔法』を、自らの知性でねじ伏せ、支配するという、科学者としての究極の野望だった。
そして、その神を殺すための罠の、中心に。
最も重要な「餌」として、美月が古びた鉄製の椅子に、固く縛り付けられていた。
◇
麻酔から覚めた美月は、自らが置かれた絶望的な状況を、静かに受け入れていた。
手足はロープで縛られ、身動き一つ取れない。
周囲には、無数の銃口を構えた兵士たちが、彼女を冷たい目で見下ろしている。
恐怖がないわけではなかった。
心臓は、張り裂けそうなほど激しく鼓動し、指先は氷のように冷たい。
だが、彼女の瞳からは、決して、希望の光が消えることはなかった。
(……蒼真くんは、必ず来てくれる)
彼女は、強く、そう信じていた。
たとえ、その先に待っているのが、地獄のような戦いだとしても。
あの人は、決して、私を見捨てたりしない。
彼女は、目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、ハーモニーバレーで過ごした、ささやかで、けれど宝石のように輝いていた日々の記憶。
朝の食卓で交わした、何気ない会話。
仕事帰りに、二人で見た、美しい夕焼け。
親友のジェイクさんと、三人で笑い合った、あの温かい時間。
(……ごめんなさい、蒼真くん。また、あなたを、戦いの渦に巻き込んでしまって)
心の中で、謝罪を呟く。
(でも、私は信じてる。あなたの強さを。あなたの優しさを。だから、私は、最後まで諦めない)
美月は、そっと目を開いた。
その瞳には、恐怖を乗り越えた、凛とした意志の光が宿っていた。
彼女は、ただ無力な餌ではない。
愛する人を信じる心こそが、彼女の唯一にして最強の武器だった。
◇
「全システム、オンライン。フィールド発生まで、カウントダウンを開始します」
トンプソン中佐が、冷静に報告する。
ハリス大佐は、椅子に縛り付けられた美月を一瞥すると、その口元に、冷酷な笑みを浮かべた。
「博士。貴様のこの玩具が、本当に機能することを祈るぞ」
「ご心配なく、大佐。今夜、あなたは、神が地に堕ちる瞬間を、特等席でご覧になれますわ」
ヴァシリエフの言葉と共に、トンプソンが、最後のコマンドを入力した。
「――フィールド、起動!」
その瞬間、巨大な円形装置が、地鳴りのような重低音を響かせ始めた。
超伝導コイルが、青白い光から、不気味な紫色の光へと色を変える。
周囲の気温が、急激に低下し、兵士たちの吐く息が、白く凍りついた。
目には見えない、死の領域が、廃工場全体を支配していく。
科学が生み出した、魔法殺しの結界。
完璧な罠。
完璧な舞台。
ハリス大佐は、工場の入り口へと続く、暗い闇を見つめた。
その闇の向こうから、怒りに燃える一匹の獣が、真っ直ぐに、この死地へと向かってきている気配を感じる。
彼は、満足げに、葉巻に火をつけた。
「……あとは、獲物が、この罠にかかるのを待つだけだ」
その声は、これから始まる、最後の戦いの開始を告げる、非情なるゴングだった。
◇◇◇
夜の闇が、世界を支配していた。
月は雲に隠れ、星の光さえも届かない。
蒼真は、挑戦状に記された座標――廃工場の前に、一人、立っていた。
巨大な鉄の塊が、夜の闇に、巨大な獣の骸のように横たわっている。
割れた窓は、まるで虚ろな眼窩のようだ。
錆びついた鉄骨が、風に吹かれて、ギシギシと悲鳴のような音を立てている。
罠だ。
そんなことは、百も承知だった。
この先に待っているのは、計算され尽くした、悪意に満ちた地獄であることも。
だが、蒼真の心に、迷いは一片もなかった。
彼の脳裏に焼き付いているのは、恐怖に怯えながらも、自分を信じてくれた、愛しい人の顔。
(……待ってろ、美月)
蒼真は、固く拳を握りしめた。
(今、行く。たとえ、この身がどうなろうとも。お前だけは、必ず、俺が取り戻す)
その瞳に宿るのは、もはや復讐の炎だけではなかった。
蒼真は、一歩、また一歩と、獣の口のように開かれた、工場の入り口へと、その足を踏み入れた。
◇
内部は、しんと静まり返っていた。
カビと、錆びた鉄の匂いが、鼻を突く。
蒼真の足音が、だだっ広い空間に、不気味に反響した。
彼は、警戒を怠らない。
全身の神経を研ぎ澄まし、魔力を、まるで探知機のように周囲に張り巡らせる。
だが、奇妙なことに、人の気配は全く感じられなかった。
ただ、工場の中心部から、微かな、しかし無視できない、何かのエネルギーの波動を感じるだけ。
蒼真は、その波動の源へと、吸い寄せられるように歩を進めた。
やがて、視界が開ける。
工場の最も広大な、中央エリア。
そして、その中心に、彼女はいた。
「……美月っ!」
思わず、声が漏れた。
一本のスポットライトが、まるで舞台上の悲劇のヒロインを照らし出すかのように、その姿を闇の中から浮かび上がらせていた。
美月は、古びた鉄製の椅子に縛り付けられていた。
その口は、粘着テープで塞がれ、声も出せない。
だが、彼女は、決して、うつむいてはいなかった。
その大きな瞳で、真っ直ぐに、闇の中に立つ蒼真を見つめていた。
その瞳が、必死に何かを訴えかけている。
蒼真は、一気に距離を詰めた。
美月の前に立つと、彼は、その頬にそっと触れた。
冷たい。きっと、ずっと、この寒い場所に一人でいたのだろう。
彼の瞳に、激しい怒りと、そして深い愛情が、同時に宿る。
「……大丈夫だ。すぐに、楽にしてやる」
蒼真は、美月を縛り付けるロープを魔法で断ち切り、口のテープをはがす。
その瞬間だった。
ブウウウウウウウウウウン……。
工場の中心に設置された、巨大な円形の装置が、不気味な重低音を響かせ、紫色の光を放った。
同時に、蒼真の全身を、経験したことのない、奇妙な感覚が襲った。
それは、まるで、体中の血液が、一瞬にして鉛に変わってしまったかのような、絶対的な倦怠感。
魂と、世界を繋いでいた、魔力の奔流が、ぴたり、と止まった。
体の中から、力が、ごっそりと抜け落ちていく。
神の如き全能感が、ただの人間の無力感へと、強制的に書き換えられていく。
「な……んだ……これは……?」
蒼真は、愕然とした。
あれほど、意のままに操れたはずの魔力が、体内で、霧のように掻き消えていく。
まるで、水で火を消すかのように、彼の力が、何かによって、根源から「相殺」されている。
「……魔力が……消える……?」
初めて覚える、完全な無力感。
それは、異世界に召喚されて以来、彼が一度も経験したことのない、絶対的な恐怖だった。
「――終わりだ、化け物」
静寂を破り、冷徹な声が響いた。
工場の二階部分、キャットウォークの闇の中から、ゆっくりと、複数の人影が姿を現す。
中心に立つのは、ハリス大佐。
その隣には、狂的な笑みを浮かべるヴァシリエフ博士と、冷静な表情のトンプソン中佐。
そして、彼らの周囲を、数十名の、完全武装した兵士たちが、銃口を真っ直ぐに蒼真へと向けていた。
ハリスは、まるで王のように、蒼真を見下ろしている。
その瞳には、勝利を確信した、絶対的な優越感が浮かんでいた。
「貴様のそのオカルトパワーも、我々の科学の前では、無力だと証明されたな」
「蒼真くんっ! 逃げてぇぇぇっ!」
美月が必死に警告を発する。
その瞳からは、大粒の涙が、止めどなく溢れ出ていた。
だが、蒼真は、その場から動かなかった。
いや、動けなかった、のではない。
動かなかったのだ。
彼は、ゆっくりと、美月の方を振り返った。
そして、その瞳に、絶望ではなく、ただ、安らかな、愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「……美月を置いて、逃げられるか」
その声は、静かだった。
だが、そこには、どんな魔法よりも強い、彼の魂の覚悟が込められていた。
たとえ、この身が砕け散ろうとも。
たとえ、この命が、ここで尽きようとも。
この美月だけは守る。
その、たった一つの真実が、魔力を失った彼の心を、強く、強く支えていた。
ハリスは、そんな蒼真の姿を、鼻で笑った。
「……愚かな。感傷に浸っている暇はないぞ」
彼は、兵士たちに向かって、冷酷な命令を下した。
その声は、まるで、死刑執行を告げる宣告のように、廃工場全体に響き渡った。
「――撃て。ただし、生け捕りにする。急所は、外せ」
その号令と共に、数十の銃口が、一斉に、火を噴く準備を整えた。
カチャリ、カチャリ、と。
ライフルの安全装置が外される、無機質な金属音が、いくつも重なり合う。
それは、神が、ただの人間に戻り、そして、その命が、鉄の弾丸によって裁かれようとしている、終わりの始まりの音だった。




