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第86章

 あれから、数ヶ月の時が流れた。

 プロジェクト・ネメシスの地下要塞が崩壊した後、世界は奇妙な静寂に包まれていた。

 蒼真の存在を追う者は、ぴたりと途絶えた。

 まるで、あの夜の惨劇など、最初から存在しなかったかのように。

 

 蒼真と美月は、ハーモニーバレーでの日常を取り戻していた。

 ジェイクの傷も奇跡的な回復を見せた。


 町の人々は、あの日のオーク型生物兵器の襲撃を「山から下りてきた、突然変異の熊の仕業」だと信じ、そして、それを一撃で屠った蒼真の力を「ソウマは、いざという時にとんでもない力を出す、頼りになる奴だ」と、好意的に解釈してくれた。

 

 全てが、元通りになった。

 いや、元通りになったかのように、見えた。

 

 だが、水面下では、悪意に満ちた計略が、静かに、そして着実に進行していた。

 蒼真が手に入れた束の間の平穏を、根こそぎ奪い去るための、非情なる罠が。


 ◇

 

 その日、ハーモニーバレーの図書館は、閉館時間を過ぎて、しんと静まり返っていた。

 古い本の匂いと、磨き上げられた木の床の匂いが混じり合う、心地よい静寂。窓の外は、すでに夕闇に包まれ、館内には、スタンドの柔らかい光だけが灯っている。

 

 美月は、一人、カウンターで返却された本の整理作業を行っていた。

 鼻歌交じりに、一冊一冊、丁寧に背表紙のラベルを確認し、所定の棚へと戻していく。その横顔は、幸福に満ちていた。

 

 蒼真の心は、まだ完全には癒えていない。

 時折、悪夢にうなされ、その身に宿る強大すぎる力に、苦しむ夜もある。


 だが、それでも、彼は戦うことをやめた。

 復讐ではなく、このささやかな日常を守ることを選んでくれた。

 そのことが、美月には何よりも嬉しかった。

 (今夜は、蒼真くんの好きなビーフシチューにしよう。ジェイクさんも呼んで、三人で……)

 そんなことを考え、ふと顔を上げた、その時だった。


 カチャリ、と。

 閉めたはずの、入り口のドアが開く音がした。

 

「……どなたか、いらっしゃいますか? もう閉館時間ですけれど……」

 

 美月が声をかけるが、返事はない。

 代わりに、複数の足音が、一切の遠慮なく、図書館の中へと侵入してきた。

 それは、客の足音ではなかった。

 獲物を狩る、捕食者の足音。

 

 美月の背筋を、ぞくりと冷たい悪寒が駆け上った。

 彼女がカウンターから身を乗り出して見たものは、黒い悪夢そのものだった。

 

 四人の男。

 

 全員が、頭からつま先まで、漆黒のコンバットスーツに身を包み、顔は黒い目出し帽で覆われている。

 その手には、サプレッサーが装着された、特殊部隊仕様のサブマシンガン。

 

 彼らの動きには、一切の無駄がない。

 音もなく、しかし圧倒的な威圧感を放ちながら、美月を包囲するように、ゆっくりと距離を詰めてくる。

 

「……あなたたちは……!?」

 

 美月は、後ずさりながら叫んだ。

 だが、男たちは一言も発しない。


 ただ、その瞳だけが、値踏みをするように、冷たく彼女を見据えていた。 

 一人の男が、懐から、注射器を取り出した。

 その中には、無色透明の液体が満たされている。

 

 ダメだ。捕まる。

 

 美月は、最後の力を振り絞り、カウンターの上の非常ベルに手を伸ばそうとした。

 だが、それよりも早く、一人の男がカウンターを軽々と飛び越え、背後から彼女の口を、分厚い手で荒々しく塞いだ。


「ん……! んんーーっ!」


 抵抗しようにも、成人男性の力は、あまりにも強い。

 身動き一つ取れない。

 

 そして、もう一人の男が、彼女の腕を掴み、その白く、か細い腕に、無慈悲に注射針を突き立てた。

 チクリ、という小さな痛みの後、強力な即効性の麻酔薬が、彼女の血管へと注入される。

 

 美月の意識が、急速に遠のいていく。

 薄れゆく視界の中で、男の一人が、喉元のマイクに、冷たい声で報告しているのが見えた。

 

「こちら、エコー・ワン。ターゲット、確保。――撤退を開始する」

 

 それが、彼女が聞いた、最後の言葉だった。


 ◇

 

 数分後。

 ハーモニーバレーの静かな夜道を、一台の黒いパネルバンが、猛スピードで走り去っていった。

 その後部座席で、意識を失った美月が、まるで眠っているかのように横たわっている。

 

 助手席に座る男の持つ無線機から、あの冷徹な声が響いた。

 

「――こちら、ハリス。状況は?」

「ターゲットを確保。現在、指定ポイントへ移動中です」

「……よろしい」

 

 ハリスの声には、満足の色が浮かんでいた。

 

「これで、駒は揃った。トンプソン、ヴァシリエフ博士に伝えろ――準備にかかれ、と」

 

 無線が、ぷつりと切れる。

 悪魔の計略は、最終段階へと移行した。

 神を殺すための、非情なる罠が、静かにその口を開けようとしていた。


 ◇

 

 その頃、蒼真は、上機嫌で図書館へと続く道を歩いていた。

 手には、先程ジェイクから「いつも世話になってるから」と、半ば無理やり持たされた、焼きたてのアップルパイの箱。

 温かく、甘い香りが、鼻先をくすぐる。

 

「美月の奴、喜ぶだろうな」

 

 そんなことを考えながら、図書館の前に着いた蒼真は、ふと、違和感に気づいた。

 おかしい。いつもなら、この時間には、館内の明かりが消えているはずだ。


 それに、入り口のドアが、僅かに開いている。

 胸騒ぎがした。

 蒼真は、アップルパイの箱をその場に落とすのも構わず、図書館のドアを勢いよく開けた。

 

「美月! いるのか!」

 

 返事はない。

 ただ、そこには、信じがたい光景が広がっていた。

 

 本棚は倒され、無数の本が、無残に床に散らばっている。

 カウンターの椅子はひっくり返り、美月が使っていたはずのマグカップが、粉々に割れていた。

 

 明らかに、何者かが侵入し、争った跡。

 蒼真の血の気が、さっと引いた。

 

「美月……! どこだ、美月っ!」

 

 彼は、狂ったように館内を駆け回り、愛する人の名前を叫んだ。だが、いくら叫んでも、優しい返事は返ってこない。

 そして、彼は、カウンターの上に、一枚だけ、ぽつんと置かれた、白いカードを発見した。

 そこには、タイプライターで打たれたような、無機質な文字が並んでいるだけだった。


 『N 40° 44' 54.84", W 105° 34' 39.72" 一人で来い』


 それは、座標だった。町外れにある、廃工場の座標。


 蒼真は、そのカードを、指が白くなるほど、強く、強く握りしめた。

 

 ああ、そうか。

 そうだったのか。

 俺が、間違っていたのだ。

 

 平穏など、最初から存在しなかった。

 あの悪魔どもは、決して、俺たちを許す気などなかったのだ。

 

 蒼真の全身が、わなわなと震え始めた。

 それは、恐怖ではない。

 

 怒り。

 絶望。

 そして、自らの甘さに対する、激しい後悔。

 

 守ると、誓ったはずなのに。

 この手で、必ず守り抜くと、決めたはずなのに。

 まただ。

 

 また、俺は、最も大切なものを、奪われるのか。

 異世界で、仲間たちを失った、あの日の絶望が、フラッシュバックする。


「……う……ああ……」

 

 蒼真の喉から、獣のような呻き声が漏れた。

 彼の瞳から、人間的な光が消え失せ、代わりに、全てを焼き尽くす、復讐の炎が、再びその魂に宿った。

 彼の身に纏う魔力が、もはや制御されることなく、黒い嵐となって荒れ狂う。図書館の窓ガラスが、その凄まじいプレッシャーに耐えきれず、一斉に粉々に砕け散った。


「美月ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!!!」


 その絶叫は、もはや人間の声ではなかった。

 愛する者を奪われた、一匹の獣の、魂からの慟哭。

 

 怒りと、絶望と、そして底なしの殺意が混じり合ったその叫びは、ハーモニーバレーの静かな夜空を、根こそぎ引き裂いていった。

 

 たとえ、この身がどうなろうとも。

 たとえ、この世界全てを敵に回すことになろうとも。

 

 ただ、一人、彼女を取り戻すためだけに。

 復讐の化身は、今、再び、その牙を剥いた。

 

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