第85章
純白の戦闘室を抜け、蒼真が最後に足を踏み入れたのは、この地下要塞のまさに頭脳であり、心臓部であるべき場所――中央研究室だった。
そこは、神の領域を侵さんとする、人間の傲慢と狂気が結晶化した空間だった。
部屋の中央には、液体ヘリウムの白い冷気が立ち上る、直径五メートルはあろうかという巨大な円形の装置が鎮座している。
超伝導コイルが複雑に絡み合い、無数のケーブルが、天井や床に設置されたスーパーコンピューターへと接続されていた。
壁一面にはホログラフィック・スクリーンが浮かび上がり、そこには、蒼真自身が放った魔法のエネルギー波形、魔力の粒子構造、そして理解不能な数式が、青白い光となって絶え間なく流れ続けている。
ここは、彼の「力」を解析し、その秘密を丸裸にするための、巨大な祭壇だった。
その祭壇の前で、一人の女性が、まるで神託を待つ巫女のように、恍惚とした表情でスクリーンを見上げていた。
ドクター・エレナ・ヴァシリエフ。
銀髪をきつく結い上げた、氷のように冷たい灰色の瞳を持つ、ロシア系の天才科学者。
彼女は、蒼真の侵入に気づいていながら、振り返ろうともしない。
その意識は、目の前に表示される、未知なるエネルギーの解析データに完全に没入していた。
「……美しい……なんて美しいの……」
ヴァシリエフの唇から、うっとりとしたため息が漏れた。
「これは、物理法則に支配された、観測可能な量子波動エネルギー。なんて安定した、清らかな波形……。神が設計したとしか思えない……」
彼女は、まるで恋人を愛でるかのように、その指先でホログラムに触れる。
そして、彼女は、ゆっくりと振り返った。
その灰色の瞳には、恐怖など微塵もない。
あるのは、貴重な研究対象を目の前にした、科学者としての純粋な歓喜と、抑えきれない探究心だけだった。
その時、研究室の奥の扉が開き、ハリス大佐とトンプソン中佐が姿を現した。
ハリスの表情は、相変わらず鋼のように硬く、トンプソンは、手のひらサイズの、頑丈なケースを大事そうに抱えている。
「ヴァシリエフ博士」
ハリスが、低い声で言った。
「実験データの収集は、もう十分だろう――撤退する」
「お待ちください、大佐!」
ヴァシリエフが、ヒステリックに叫んだ。
「あと少し……あと少しで、彼の力の根源が、完全に解明できるのです! 彼を、この手で解剖し、その脳を、その心臓を、その遺伝子の螺旋を隅々まで調べ上げれば……!」
「言ったはずだ、博士。もう十分だと」
ハリスは、彼女の狂気を、冷徹な一言で切り捨てた。
彼の関心は、力の解明ではない。
ただ、その「データ」を兵器として応用することだけ。
「トンプソン、バックアップは確保したか?」
「はっ。最重要データは、この耐衝撃ケースに。これさえあれば、地上でいくらでも研究の続きが可能です」
トンプソンが、抱えたケースを誇らしげに掲げる。
その光景が、蒼真の怒りの導火線に、最後の火をつけた。
こいつらは、何一つ分かっていない。
獣人兵士たちが、どれほどの絶望の中で魂を歪められたか。
超能力兵士たちが、どれほどの尊厳を踏みにじられてきたか。
その全ての犠牲を、こいつらは、ただの「データ」としか見ていない。
「……逃がすと、思うなよ」
蒼真の全身から、黒いオーラが、これまで以上に激しく噴き上がった。
研究室の照明が、その邪悪な魔力に耐えきれず、バチバチと火花を散らして明滅する。
「お前たちが弄んだ全ての命の代償を、ここで払わせてやる」
蒼真が、破壊の魔法を紡ごうとした、その時だった。
彼の脳裏に、声が響いた。
――助けて。
それは、言葉にならない、魂の悲鳴。
この施設の、さらに地下。
蒼真がまだ足を踏み入れていない区画。
そこには、数多くの実験体たちが、檻の中で絶望の息をついていた。
蒼真の動きが、ぴたりと止まる。
(……まだ、いるのか。こいつらと同じように、苦しんでいる魂が……)
怒りに燃える心の中で、ほんのわずかに残っていた、かつての優しさが、彼に囁きかけた。
――彼らを、見捨てるのか?
蒼真は、固く拳を握りしめた。
破壊するだけでは、ダメだ。それでは、こいつらと同じだ。
救わなければ。
いや、救うなどと、おこがましい。
ただ、解放するのだ。
彼らを縛り付ける、この悪意の塊から。
蒼真は、研究室の中央に立つと、両腕を大きく広げ、その身に宿る魔力の全てを、一気に解放した。
「 お前たちを縛る、全ての枷を、俺が断ち切ってやる! ガイア・レクイエム!」
それは、大地そのものを揺るがし、その構造を根源から組み替える、星の鎮魂歌。
ゴゴゴゴゴゴゴ……!
施設全体が、巨大な地震に襲われたかのように、激しく揺れ始めた。
壁に亀裂が走り、天井からコンクリートの破片が降り注ぐ。
「な、何をする気だ!?」
トンプソンが悲鳴を上げた。
蒼真の魔法は、ただ破壊するだけではなかった。
彼は、この地下要塞の構造を、その魔力で完全に把握し、再構築していたのだ。
地下深くに囚われていた実験体たちの檻が、独房の扉が、次々と内側から破壊されていく。
そして、彼らの前には、地上へと続く、一本の道が、まるで神の啓示のように、瓦礫を退けて現れていた。
「行けっ! お前たちは自由だ!」
蒼真の魂の叫びが、解放された実験体たちの心に届く。
彼らは、一瞬の躊躇の後、一斉に、光が差す地上へと向かって駆け出した。
「馬鹿な! 実験体を全て解放するだと!? 」
ヴァシリエフが金切り声を上げる。
だが、ハリスは冷静だった。
「好都合だ」
ハリスとトンプソン、そしてヴァシリエフは、蒼真が作り出した混乱に乗じて、研究室の奥に隠された地下通路へと姿を消した。
その手には、蒼真の力の秘密を解き明かす、悪魔のデータが、確かに握られていた。
全ての実験体を解放し、全ての元凶が逃げ去った後。
蒼真の周囲には、崩壊し続ける研究室の残骸だけが残った。
「……はぁ……はぁ……っ……」
蒼真は、その場に膝をついた。
魔力の大規模な行使は、彼の精神を著しく消耗させていた。
だが、それ以上に、彼の心を蝕んでいたのは、再び燃え上がった、制御不能な怒りだった。
(……殺す……。あいつらだけは、この手で……)
彼の視界が、赤黒く染まっていく。
全身を覆う黒いオーラが、もはや彼の意思とは関係なく、蛇のように荒れ狂い始めた。
魔力の暴走。
自我が、憎悪の奔流に飲み込まれていく。
(……だめだ……このままでは……俺は、俺でなくなってしまう……)
意識が遠のきかけた、その時。
脳裏に、愛しい人の声が響いた。
『蒼真くん……』
美月の、声。
「……っ! 美月……!」
蒼真は、最後の理性を振り絞り、荒れ狂う魔力を、無理やり体内に押しとどめる。
彼は、血を吐きながら、かろうじて自我を保った。
だが、その代償は大きかった。彼の魔力の制御は、もはや、以前のように完璧ではなくなっていた。
心の奥底に、決して消えることのない、破壊衝動の種が、深く、深く根付いてしまったのだ。
◇
一方、地下通路を抜け、夜の森へと脱出したハリスたちは、遠くで山が崩れ、巨大な地下施設が完全に崩壊していく様を、冷ややかに見つめていた。
「……フン。化け物が、派手に暴れているな」
ハリスが、吐き捨てるように言った。
「ですが大佐、これで我々の研究は……」
トンプソンの不安げな言葉を、ヴァシリエフの狂的な笑い声が遮った。
「いいえ! これからが、本当の始まりです!」
彼女は、抱えたデータケースを、まるで聖遺物のように、愛おしそうに撫でた。
「彼の力のデータは、全て手に入れた。その本質は量子波動。ならば……」
彼女の灰色の瞳が、三日月のように細められる。
「――彼と全く逆位相の干渉波をぶつければいい。そうすれば、彼の『力』は、量子レベルで相殺され、完全に無力化できる。神を殺すための、科学の弾丸は、もう、この手の中にある……!」
彼女たちの手によって、蒼真を絶望の淵へと叩き落とす、次なる罠の準備が、静かに、そして着実に始まろうとしていた。




