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第84章

 獣たちの亡骸が眠る闘技場を後にし、蒼真は施設最上階へと続く最後の昇降機に足を踏み入れた。

 扉が閉まり、静かに上昇していく。

 

 先程までの血と獣の匂いは消え、代わりに、病院を思わせる無機質な消毒液の匂いが鼻を突いた。

 下の階で繰り広げられた、生命を冒涜する宴の痕跡を洗い流すかのように。

 

 だが、その匂いは、蒼真の心に燃え盛る怒りの炎を鎮めるどころか、むしろ油を注ぐだけだった。

 チン、と軽い電子音と共に、昇降機の扉が開く。

 

 そこに広がっていたのは、これまでのどの区画とも異質な、純白の空間だった。

 壁も、床も、天井も、全てが継ぎ目のない白い特殊合金で覆われている。


 眩いほどの照明が、部屋の隅々までを影一つなく照らし出し、あまりの白さに、目が眩みそうになる。

 そこは、特殊戦闘室。

 あるいは、神を気取った悪魔たちの、最後の実験場。


 その純白の空間の中心に、一体の「人形」が佇んでいた。

 年の頃は二十代半ばだろうか。

 体にぴったりとフィットした、同じく純白のボディスーツに身を包んだ女性。

 

 だが、その肌は、健康的な人間のものではなく、血の気の一切感じられない、陶器のような青白さをしていた。

 短く切り揃えられたプラチナブロンドの髪。

 

 そして、その顔には、何の感情も浮かんでいない。

 喜びも、悲しみも、怒りも、恐怖さえも。

 

 ただ、ガラス玉のように虚ろな青い瞳が、機械的に侵入者である蒼真を捉えているだけ。

 彼女の首筋には、痛々しい手術痕と共に、『PS-Alpha "MIND"』というコードネームが刻まれていた。


「ようこそ。私の『子供たち』の性能を、とくとご覧にいれますわ」


 スピーカーから、冷たく、しかしどこか甘美な響きを持つ女性の声が流れた。

 観察室の強化ガラスの向こうに、金髪をシニヨンにまとめ、純白の白衣をまとった、女神のように美しい女性が立っている。

 

 ドクター・サラ・ニューマン。心理学と脳科学の権威。

 そして、人体実験を「人類進化のための必要な犠牲」と信じて疑わない、狂信的な研究者だ。

 その理知的な美貌とは裏腹に、彼女の内面は、倫理というタガが完全に外れていた。

 

「彼女、コードネーム『ミンド』は、度重なる薬物投与と、精密な脳外科手術によって、その潜在能力を極限まで引き出すことに成功した、完璧なるサイキック・ソルジャー。彼女のテレキネシスは、戦車さえも紙屑のように捻り潰しますわ」

 

 ニューマン博士は、まるで我が子の才能を披露するかのように、うっとりと語る。

 その言葉は、蒼真の逆鱗に、静かに、しかし確実に触れていた。


 ニューマンの言葉に応えるかのように、ミンドが、すっと右手を上げた。

 感情のない、人形のような仕草で。

 

 すると、部屋の隅に置かれていた、資材運搬用の巨大な鉄塊――重さにして数十トンはあろうかという代物が、ギギギ……という金属の軋む音を立てて、ゆっくりと宙に浮き上がった。

 

 超能力。テレキネシス。

 科学の力でこじ開けられた、人智を超えた力。

 

 ミンドは、その鉄塊を、何の苦も無く、蒼真に向かって高速で射出した。

 凄まじい風圧と共に、巨大な死の塊が迫る。

 

 だが、蒼真は、その圧倒的な質量攻撃を前に、眉一つ動かさなかった。 


 「重力崩壊グラビティ・コラプス】」


 その瞬間、飛来する鉄塊にかかる重力が、局地的に、そして爆発的に増大した。

 鉄塊は、自らの質量に耐えきれなくなり、凄まじい轟音と共に、内側から圧壊。

 空中で、ただの鉄の砂となって、パラパラと床に降り注いだ。

 

 その時、ミンドの背後、そして左右の壁がスライドし、さらなる「人形」たちが姿を現した。

 

 ミンドと同じように、念動力テレキネシスを操る兵士が九名。

 そして、痩せ細った体に虚ろな瞳を宿し、頭部に無数の電極を埋め込まれた、偵察型の透視能力クレアボヤンス兵士が五名。

 その中の一人、コードネーム『サイト』と呼ばれる青年が、苦痛に顔を歪めながら叫んだ。

 

「……見えない! 敵の次の行動が、予測できない……! 何もしていないのに、鉄の塊が……砂に……!?」

 

 彼の能力は、相手の筋肉の動きや脳波を読み取り、次の行動を予測するものだ。

 だが、蒼真の魔法は、物理的な予備動作を必要としない。

 ただ、術者の意思イメージだけで発動する。


 科学で解析できる領域を超えた、異世界の理。

 サイトの脳は、理解不能な情報に焼き切れんばかりに混乱していた。


「一斉攻撃!  彼を直接破壊なさい!」

 

 ニューマンのヒステリックな絶叫が響く。

 ミンドを含む、十名の念動力兵士たちが、一斉に蒼真へと両手を突き出した。

 

 目には見えない、純粋な思念の刃。

 十人分の強力なサイキック・パワーが、津波となって蒼真の精神を直接破壊すべく殺到した。

 

 だが、それは、あまりにも無謀な攻撃だった。

 まるで、小川の流れで、大海を押し返そうとするかのように。

 

「……哀れだな」

 

 蒼真は、静かに目を閉じた。

 彼の魂そのものが、不可視の障壁となって、彼らの哀れな攻撃を、いともたやすく受け止める。

 

 「魂の聖域ソウル・サンクチュアリ】」

 

 殺到した思念の刃は、蒼真の魂に触れることさえできず、霧のように掻き消えていく。

 

「そ、そんな……! 私の子供たちのサイコ・ブラストが、全く効いていない……!?」

 

 ニューマンが、信じられないというように絶叫する。

 蒼真は、ゆっくりと目を開いた。

 その瞳には、もはや怒りではなく、深い、深い憐憫の色が浮かんでいた。

 

 目の前にいる、十五人の「元人間」たち。

 彼らは、獣人兵士たち以上に悲惨だった。

 肉体だけでなく、その心も、記憶も、感情さえも、科学という名の暴力によって奪い去られている。

 ただ、命令に従うだけの、生ける屍。

 

 蒼真は、そっと両手を広げた。

 

 (お前たちの悪夢は、俺が終わらせてやる)


 「安息の鎮魂歌レクイエム・オブ・サイレンス】」

 

 それは対象の生命活動そのものに優しく干渉し、永遠の眠りを与える魔法。

 蒼真の体から、温かな光の粒子が、雪のように舞い始めた。

 その光は、部屋全体を、夕暮れのような優しい光で満たしていく。

 

 光の粒子に触れた超能力兵士たちの体が、びくり、と震えた。

 彼らを縛り付けていた薬物効果が、脳を支配していた機械的な命令が、浄化されていく。

 

 虚ろだった瞳に、ほんの一瞬、かつての人間性が、微かな光となって灯った。

 サイトと呼ばれた青年は、苦痛に歪んでいた顔を、穏やかなものへと変えた。

 

「……幻覚が……消えた……静かだ……」

 

 そう呟くと、彼は満足げに微笑み、糸が切れたように、その場に静かに崩れ落ちた。

 他の兵士たちも、次々と、まるで母親の腕に抱かれて眠る赤子のように、安らかな表情で、永遠の眠りについていく。


 最後に残ったのはミンドだった。

 彼女は、蒼真を真っ直ぐに見つめていた。

 その唇が、か細く、しかし確かに言葉を紡いだ。

 

「……感情が……戻って……きた……。温かい……」

 

 彼女は、自分の胸にそっと手を当て、生まれて初めて感じるかのような、温かな感覚に、微かに微笑んだ。

 そして、その微笑みを浮かべたまま、彼女もまた、静かに、純白の床の上へと崩れ落ちていった。


 十五の魂が、ようやく、その長すぎた苦痛から解放された。

 蒼真は、静かに彼らの亡骸を見下ろすと、その怒りの矛先を、観察室でわなわなと震える、元凶へと向けた。

 

「私の……私の完璧な子供たちが……! 」

 

 ニューマン博士が、金切り声を上げる。

 だが、蒼真は、もはや彼女に言葉をかける価値さえ感じなかった。

 

 彼は、ただ、指を鳴らした。

 バリンッ! ギャリリリッ! ドゴォォンッ!

 

 観察室の強化ガラスが粉々に砕け散り、部屋の中にあった全ての実験装置、データが保存されたサーバー、非人道的な研究の痕跡全てが、見えざる力によって、一瞬にして鉄屑と化した。

 

 蒼真は、腰を抜かして床にへたり込むニューマン博士を一瞥すると、背を向け、最後の戦いの舞台へと、静かに歩き出した。

 その背中には、救いを求める魂たちの、声なき感謝が、重く、そして温かくのしかかっているような気がした。

 

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