第83章
鉄屑と化した兵器の残骸を踏み越え、蒼真は要塞のさらに深層へと続く巨大な昇降機に乗り込んだ。
昇降機が停止し、重々しい金属音と共に扉が開く。
蒼真の眼前に広がったのは、先程までの無機質なドックとは全く異質な空間だった。
そこは、巨大な闘技場――コロッセオを彷彿とさせる、円形の戦闘エリアだった。
高さは百メートル以上。
壁面は滑らかな金属で覆われ、観客席のように、何層にもわたって強化ガラスで覆われた観察室が並んでいる。
床には、無数の獣の爪痕と、黒ずんだ血の染みが、この場所で行われてきたおぞましい儀式の歴史を物語っていた。
そして、鼻を突くのは、消毒液の匂いに混じった、生臭い獣の匂いと、死の匂い。
その闘技場の中心に、一人の「男」が立っていた。
いや、それを男と呼んでいいものか、蒼真は一瞬ためらった。
身長は二メートルを遥かに超えている。
逆三角形のたくましい上半身は裸で、その全身は、灰色の硬質な体毛で覆われていた。
人間のそれとは比較にならないほど分厚い胸板と、丸太のように太い腕。
指先からは、まるで黒曜石のナイフのように鋭く、黒光りする爪が十センチ以上も伸びている。
そして、その首から上は、もはや人間のそれではなく、獰猛な狼の頭部そのものだった。
裂けた口からは、獲物の喉を食い千切るための鋭い牙が覗き、黄金色に輝く瞳は、飢えた獣の光を宿しながらも、その奥底に、消えかけた理性の残滓と、深い苦悩の色を浮かべていた。
その姿は、異世界で蒼真が戦ったワーウルフに酷似していた。
だが、決定的に違う。彼の体には、皮膚を突き破って金属のプレートが埋め込まれ、首筋には『BS-001 "WOLF"』という烙印が押されていた。
「――ようこそ」
突如、闘技場全体に、スピーカーを通した甲高い男の声が響き渡った。声
には、粘りつくような愉悦と、隠しきれない狂気が滲んでいる。
蒼真が視線を上げると、正面の観察室のガラスの向こうに、白衣を着た神経質そうな男が立っているのが見えた。
ドクター・チャールズ・フォックス。
生物学と遺伝子工学の専門家。
痩せ型で、度の強そうな眼鏡の奥の瞳は、好奇心で不気味に輝いている。
「君の前にいるのは、ビースト・ソルジャー001、コードネーム『ウルフ』。元は優秀な兵士だった男に、狼の遺伝子を融合させ、戦闘に特化した生命体として再設計した、私の最高傑作だ! 」
フォックス博士は、まるで自分の子供を自慢するかのように、陶酔した口調で語り続ける。
その言葉の一つ一つが、蒼真の心の奥底に、冷たい怒りの杭を打ち込んでいった。
グルルルルルル……!
ウルフが、低い唸り声を上げた。
その黄金色の瞳が、真っ直ぐに蒼真を捉える。
次の瞬間、闘技場の四方にある巨大なゲートが、一斉に開かれた。
そこから現れたのは、さらなる絶望の軍勢だった。
まず、七体の狼型獣人兵士。
ウルフよりは小柄だが、それでも常人を遥かに凌駕する体躯と、飢えた獣の殺意を放っている。
そして、その背後から、地響きを立てて現れたのは、四体の「熊」だった。
身長は三メートル近い。
もはや、人間の面影はどこにもない。
分厚い脂肪と筋肉で覆われた巨体は、まさに破壊の化身。
その口からは涎が絶え間なく滴り落ち、濁った小さな瞳には、理性のかけらも見当たらない。
ただ、純粋な破壊衝動だけが渦巻いている。
彼らの首筋にもまた、『BS-002 "BEAR"』という無慈悲な刻印が焼き付けられていた。
合計、十二体の地獄の番犬。
彼らは、ゆっくりと蒼真を包囲し、逃げ場のない円陣を完成させた。
「さあ、ショータイムの始まりだ!」
フォックス博士の狂的な声が響く。
「存分に味わうがいい! 人類の科学が生み出した、神への反逆を!」
その言葉を合図に、ウルフが天に向かって、遠吠えのような咆哮を上げた。
アオオオオオオオオオオンッ!!
それは、戦闘開始の号令。
七体の狼型獣人が、一斉に地面を蹴った。
その動きは、もはや人間の俊敏性を遥かに超えている。
四方八方から、残像を描きながら蒼真に殺到し、その鋭い爪を、一斉に振り下ろした。
だが、蒼真は、その場から一歩も動かなかった。
ただ、その身に纏う黒いオーラが、一瞬だけ、濃くなった。
「影の障壁」
蒼真の周囲の影が、まるで生きているかのように隆起し、瞬時にして彼を覆う黒いドームを形成した。
ガギンッ! ギャリリリッ!
獣人たちの爪が、見えざる壁に弾かれ、甲高い金属音と火花を散らす。
どんな鋼鉄よりも硬く、どんな攻撃も通さない、絶対的な防御結界。
「なっ!?」
観察室のフォックスが、驚愕に目を見開く。
その一瞬の隙を、蒼真は見逃さなかった。
影のドームを解除すると同時に、彼は一気に距離を詰め、一体の狼型獣人の懐に潜り込む。
そして、その鳩尾に、容赦のない掌底を叩き込んだ。
獣人は、短い悲鳴を上げる間もなく、くの字に折れ曲がり、意識を失ってその場に崩れ落ちた。
ゴオオオオオッ!!
背後から、暴風のような風圧と共に、巨大な影が迫る。
熊型獣人――ベアだ。
その巨大な腕が、家屋さえも粉砕するほどの威力で、蒼真の頭上から振り下ろされた。
蒼真は、紙一重でそれをかわす。
ベアの拳が叩きつけられた床が、凄まじい音を立てて陥没し、蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
彼の表情から、人間的な感情が消える。
瞳が、絶対零度の光を宿す。
だが、彼が反撃に移ろうとした、その時。
最初に倒したはずの狼型獣人が、むくりと起き上がった。
その瞳は赤く充血し、口からは泡を吹いている。
「……死……ね……コロ……セ……」
それは、人間の言葉ではなかった。
だが、確かに、かつて人間だったものの、声の残響がそこにあった。
蒼真の動きが、一瞬、止まった。
ウルフの、苦悩に満ちた黄金色の瞳。
ベアの、完全に理性を失った濁った瞳。
そして、今、目の前で、命令に逆らえない苦痛に身をよじらせながら、それでもなお殺意を向けてくる獣人たち。
彼らは、好きでこうなったわけではない。
科学という名の冒涜によって、その魂ごと、獣の檻に閉じ込められた、哀れな犠牲者なのだ。
「……許さない……」
蒼真の唇から、静かな、しかしマグマのように熱い怒りが漏れた。
「貴様らだけは……絶対に、許さない……!!」
その怒りは、獣人たちに向けられたものではなかった。
彼らをこんな姿に変え、弄び、最高傑作と嘯く、ガラスの向こうにいる悪魔たちへ向けられたものだった。
蒼真の全身から、凄まじい魔力が、炎となって噴き上がった。
「そうだ! それだ! もっと見せろ! 君のその力の根源を!」
フォックス博士が、興奮に声を震わせる。
だが、蒼真が選んだ魔法は、純粋な破壊ではなかった。
「浄化の聖炎】」
それは、肉体を焼き尽くすのではなく、その魂に宿る苦痛と呪いだけを浄化する、慈悲の炎。
蒼真を中心に、黄金色に輝く、温かく、そして神々しい炎の渦が巻き起こった。
その炎は、闘技場全体を、まるで夜明けの光のように優しく照らし出す。
獣人たちは、その炎に触れても、熱がる素振りを見せない。
それどころか、彼らの苦痛に満ちた表情が、ゆっくりと、穏やかなものへと変わっていく。
憎悪にぎらついていた瞳が、安らかな光を取り戻す。
緊張で硬直していた筋肉が、ふっと弛緩する。
彼らは、まるで温かい毛布に包まれるように、その場にゆっくりと膝をつき、そして、安らかな眠りにつくように、静かに倒れていった。
彼らの魂は、ようやく、長すぎた悪夢から解放されたのだ。
最後に残ったのは、リーダーであるウルフだけだった。
彼は、浄化の炎の中で、蒼真を真っ直ぐに見つめていた。
その黄金色の瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
ウルフは、満足げに微笑むと、他の仲間たちと同じように、静かにその場に崩れ落ちた。
闘技場に、再び静寂が戻る。
後に残されたのは、安らかな寝顔で倒れる、十二の「元人間」たちの亡骸だけだった。




