第81章
月明かりさえ届かない、新月の夜だった。
ハーモニーバレーが深い眠りに沈む深夜、蒼真と美月の小さな家の周囲を、十二の亡霊が音もなく包囲していた。
彼らは、影。彼らは、死。
アメリカが保有する最強の刃――デルタフォース。
その一人一人が、現代における最強の兵士だった。
闇に溶け込む最新の光学迷彩戦闘服に身を包み、顔には暗闇を昼間のように見通す四眼式のナイトビジョンゴーグル。
手にするのは、サプレッサーを装着し、発砲音を極限まで抑えた特殊仕様のアサルトライフル。
心拍数を感知するセンサー、指向性マイク、あらゆる電子機器を無効化する小型EMPグレネード。
彼らは、科学技術の粋を集めて武装した、完璧な狩人だった。
家から百メートル離れた森の中、倒木に身を隠した指揮官が、喉に装着した小型マイクに囁くように命令を下した。
「こちらアルファ・リーダー。全チーム、配置についたか?」
男の名は、ジョナサン・スミス中佐。
数多の激戦地を生き抜き、その名を伝説として刻んできた、デルタフォースのエースだ。
鍛え抜かれた肉体は、まるで鋼の彫像のようであり、その精神は、いかなる状況でも揺らぐことのない絶対的な冷静さを保っている。
《ブラボー、配置完了》
《チャーリー、いつでも行ける》
《デルタ、ターゲットの家の裏手を確保》
イヤーピースから、部下たちの冷静な報告が次々と届く。
完璧な包囲網。蟻一匹這い出る隙間もない。
「ターゲットのバイタルは?」
「二階の寝室に二つの心拍を確認。一つはターゲット、ソウマ・タチバナ。もう一つは、同居している女性、ミツキ・シライシ。二人とも、深い睡眠状態にあると推定されます」
報告したのは、副官のケビン・ライト少佐だ。
格闘術のエキスパートであり、数々の近接戦闘を制してきた歴戦の猛者。
傷だらけの顔が、彼の潜り抜けてきた死線の数を物語っている。
スミスは、ゴーグル越しにターゲットの家を冷徹に見据えた。
ただの木造の家。何の変哲もない、田舎の一軒家。
この中に、自衛隊の一師団を壊滅させ、巨大な生物兵器を一撃で消滅させた怪物が眠っているとは、到底信じがたい。
だが、情報は絶対だ。
そして、任務もまた、絶対である。
「これより突入する。作戦目標は、ターゲットの確保。ターゲットへの攻撃は、非殺傷の麻酔弾のみ許可する」
スミスは、静かに息を吸い込んだ。
「作戦開始」
その瞬間、十二の影が、一斉に、しかし音もなく動き出した。
彼らは、まるで一体の多頭の獣のように、連携し、呼吸を合わせ、ターゲットの家へと忍び寄っていく。
玄関、窓、裏口。
全ての侵入経路を、同時に制圧する。完璧な戦術。完璧な奇襲。
成功を、誰もが疑わなかった。
――彼らが、狩ろうとしている獲物の正体を知るまでは。
◇
その頃。
蒼真は、ベッドの上で静かに目を開けていた。
彼の肌は、彼らが放つ殺気の波動を感じ取っていた。
彼の張り巡らせた魔力の結界は、家の周囲に集う十二の魂の在り処を、寸分の狂いもなく正確に捉えていた。
その顔に焦りの色はない。
あるのは、自らの平穏を再び脅かしに来た侵入者たちへの、氷のように冷たい怒りだけだった。
隣では、美月が穏やかな寝息を立てている。
彼女だけは、絶対に起こすわけにはいかない。
蒼真は、そっとベッドから抜け出すと、闇の中に溶け込むようにして、音もなく一階へと降りた。
◇
「アルファ・リーダーより、全チームへ。――突入!」
スミスの号令と共に、デルタフォースの隊員たちが、特殊なツールで寸分の音も立てずに鍵を開け、家の中へと侵入した。
暗視ゴーグルが映し出す緑色の世界。
彼らは、訓練通り、完璧なフォーメーションで各部屋を制圧していく。
リビング、キッチン、バスルーム。異常なし。
ライト少佐が、部下たちにハンドサインで指示を出し、階段へと向かった、その時だった。
「――お前たち、俺に何か用か?」
声は、リビングの暗闇の中から聞こえた。
全員が、弾かれたように声の方向へ銃口を向ける。
だが、そこには誰もいない。
暗視ゴーグルにも、熱源センサーにも、何の反応もない。
「どこだ!?」
隊員の一人が、動揺した声を上げた。
「落ち着け!」
ライトが叱咤した、その直後。
彼の背後にいた隊員の首筋に、闇の中から、すっと白い手が伸びた。
「――ここだ」
声と同時に、隊員は「ぐっ」という短い悲鳴を上げたきり、崩れ落ちた。
気絶している。
「何っ!?」
ライトが振り返る。
だが、やはりそこには誰もいない。
仲間が一人、何の抵抗もできずに倒されたというのに、敵の姿も、気配さえも感じ取れない。
ありえない。
自分は、幾多の死線を潜り抜けてきた近接戦闘のスペシャリストだ。
背後にこれほど接近されて、気づかないはずがない。
恐怖が、歴戦の兵士たちの心を、じわりと蝕み始めた。
『【影潜み(シャドウ・ダイブ)】』
蒼真は、リビングの隅の影の中に、その身を完全に同化させていた。
物理法則を超越した、魔法の領域。
科学技術の粋を集めた装備など、彼の前では子供の玩具に等しかった。
蒼真は、影から影へと音もなく移動し、次々と兵士たちを無力化していく。
首筋への手刀一発。それで、屈強なデルタフォースの隊員たちが、赤子のように意識を刈り取られていく。
「くそっ、どうなってるんだ!」
「敵が見えない!」
「マイク、応答しろ! デイブ!」
パニックに陥った隊員たちが、闇雲に銃を構える。
だが、彼らが銃口を向ける先は、常に空っぽだった。
一人、また一人と、仲間が声もなく倒れていく。
見えざる死神に、一方的に狩られていく。
「何だこの力は……!? これが、ターゲットの能力だというのか……!?」
ライト少佐は、目の前で起きている悪夢のような光景に、愕然と呟いた。
わずか三十秒。
リビングに立っているのは、ライト少佐ただ一人となっていた。
彼の周囲には、十人の仲間たちが、折り重なるようにして倒れている。
「……化け物め……」
ライトは、震える手でナイフを抜き、全神経を集中させて背後の闇を警戒した。
だが、蒼真は、彼の目の前の暗闇から、ゆっくりと姿を現した。
まるで、闇そのものが人の形を取ったかのように。
「お前が、最後の一人か?」
蒼真の声には、何の感情もこもっていなかった。
「……っ!」
ライトは、目の前に現れた青年に向かって、コンマ数秒の速さでナイフを突き出した。
だが、その刃が蒼真に届くことはなかった。
彼のナイフを握った手首は、まるで万力のような力で、いともたやすく掴み止められていた。
「な……!?」
「無駄だ」
ギリ、と骨が軋む音がした。
ライトの手からナイフが滑り落ちる。
蒼真は、そのままライトの鳩尾に容赦なく拳を叩き込んだ。
「ぐ……ぉ……」
ライトは、カエルが潰れたような声を上げ、その場に崩れ落ちた。
◇
家の外で、この惨状をモニター越しに見ていたスミス中佐は、その表情を鋼のように硬直させていた。
「……信じられん。わずか一分足らずで、一個小隊が全滅だと……?」
報告書にあった情報は、真実だった。
いや、それ以上だ。
これは、人間が扱える力の領域を、遥かに超えている。
だが、彼はデルタフォースの指揮官。
恐怖に屈することは、許されない。
「……俺が行く」
スミスは、ライフルを構え、自ら家の中へと突入しようとした。
その時、彼の背後で、静かな声がした。
「――その必要はない」
「!?」
スミスが振り返る。
そこには、いつの間にか、蒼真が立っていた。
まるで、最初からそこにいたかのように。
「貴様……!」
スミスは、条件反射でライフルを構え、引き金を引こうとした。
だが、彼の体は、金縛りにあったかのように、ぴくりとも動かなかった。
「【影の束縛】」
彼の足元の影が、まるで生きているかのように伸び上がり、無数の黒い触手となって、彼の全身をきつく縛り上げていたのだ。
「な……にを……」
「お前たちの目的は何だ? なぜ、俺を狙う?」
蒼真は、スミスの前に歩み寄ると、その瞳を覗き込んだ。
その瞳の奥で、禍々しい闇が渦を巻いている。
「……答えるつもりは、ない」
スミスは、最後の抵抗として、唇を固く結んだ。
拷問には慣れている。
どんな苦痛を与えられようと、口を割るつもりはなかった。
だが、蒼真のやり方は、彼の想像を遥かに超えていた。
「そうか。なら、直接、お前の頭の中から聞かせてもらう」
蒼真は、スミスの額に、そっと指を触れた。
「【記憶の探求】」
「ぐ……あああああああああっ!!!」
スミスの脳内に、直接、膨大な情報が濁流のように流れ込んできた。
彼の意識が、無理やりこじ開けられ、記憶の深層を、土足で踏み荒らされていく。
耐え難い苦痛と、精神的な陵辱。
歴戦のエースである彼の精神が、悲鳴を上げた。
『プロジェクト・ネメシス』。
実験施設の名前。
その所在地。
ハリス大佐、ヴァシリエフ博士の顔。
そして、彼らの目的――蒼真自身の捕獲と、兵器としての利用。
全ての情報が、一瞬にして蒼真の脳内へと流れ込んだ。
「……そうか。そういうことか」
蒼真は、指を離した。
スミスは、白目を剥いて、ぐったりと意識を失っている。
蒼真の顔に、静かな、しかし底なしの怒りが浮かんだ。
俺の平穏を奪ったのは、お前たちか。
ジェイクを傷つけた、あの化け物を創り出したのは、お前たちか。
そして、あまつさえ、俺自身をモルモットにしようと?
許さない。絶対に。
彼は、外に広がる闇を見つめた。
その先にある、諸悪の根源――『プロジェクト・ネメシス』の方向を。
「俺たちの平穏を脅かすものは、この手で、全て消し去ってやる」




