第80章
その場所は、神の光も届かぬ、地の底深くに存在した。
ハーモニーバレーの牧歌的な風景からわずか数十キロ。
ロッキー山脈の岩盤をくり抜いて建造された、米軍の極秘実験施設『プロジェクト・ネメシス』。
そこは、人類の倫理と禁忌を、科学という名のメスで切り刻むための地下要塞だった。
深夜、施設の中枢である中央司令室は、冷気と張り詰めた緊張感に支配されていた。
壁一面を埋め尽くす巨大なメインスクリーンと、無数のサブモニターが放つ青白い光が、室内にいる三人の男女の顔を不気味に照らし出している。
「――再生しろ」
部屋の中央、司令官席に深く腰掛けた男が、地を這うような低い声で命じた。
ロバート・ハリス大佐。
この施設の最高責任者にして、数多の極秘作戦を闇に葬ってきた、冷酷な現実主義者だ。
その体は、まるで岩から削り出したかのように筋骨隆々としており、寸分の隙もなく着こなした軍服が、彼の権威を雄弁に物語っている。
短く刈り揃えられたグレーの髪、鷲のように鋭い眼光、そして一切の感情を読み取らせない鋼のような表情。
彼にとって、人間とは目的を達成するための駒であり、兵器とは国家の意志を貫くための道具に過ぎなかった。
彼の右腕として控えるのは、作戦参謀のマイケル・トンプソン中佐だ。
ハリスとは対照的に、細身で眼鏡をかけた知的な風貌をしている。
その冷静沈着な瞳は、常にモニターに表示される膨大なデータを分析し、最も合理的で、最も効率的な解を導き出すことだけに注がれていた。
感情という不確定要素を、彼は心底軽蔑していた。
そして、メインスクリーンの前に立つ白衣の女性が、狂的な光を宿した瞳で映像を見つめている。
ドクター・エレナ・ヴァシリエフ。
ロシアから亡命してきた、生物兵器開発の天才科学者。
きつく結い上げられた銀髪と、氷のように冷たい灰色の瞳は、彼女の異常なまでの探究心と、人命よりも研究成果を優先する歪んだ倫理観を象徴していた。
彼女にとって、世界とは巨大な実験場であり、そこに生きる生物は全て、解剖されるべきサンプルでしかなかった。
トンプソン中佐がコンソールを操作すると、メインスクリーンに、ハーモニーバレーの夕暮れの映像が映し出された。
上空の監視ドローンから送られてきた、鮮明な映像だ。
スクリーンの中で、『実験体ナンバー666』が、町を破壊している。
その姿を見て、ハリスの眉が僅かに動いた。
「脱走からわずか数日で、これだけの被害を出すとはな。性能は想定以上だったようだな」
「ええ、大佐。筋組織の強化、闘争本能の増幅、共に素晴らしいデータが取れました。ですが……問題は、この後です」
ヴァシリエフ博士が、うっとりとした声で呟いた。
彼女の関心は、自らが創り出した兵器の性能ではなく、それを「消滅」させた未知の現象にこそあった。
映像は続く。血の海に倒れるジェイク。
そして、黒いオーラを纏って立ち上がる、一人の東洋人の青年。
「……ほう」
ハリスの口から、初めて興味の色を帯びた声が漏れた。
スクリーンの中で、青年が右手を掲げる。
その掌に、光さえも飲み込む漆黒の球体が生まれる。
「信じられない……! このエネルギー反応、計測不能です! どんな物理法則にも当てはまらない! これは……これは一体!」
ヴァシリエフ博士が、恍惚の表情で喘いだ。
彼女はコンソールに駆け寄り、表示されるエネルギー波形のグラフに食い入るように見入っている。
グラフの針は、ありえない数値を叩き出したまま、振り切れていた。
漆黒の球体が放たれ、実験体666を包み込む。
そして――消滅。
爆発も、閃光もない。
ただ、そこに在ったはずのものが、原子レベルで、この世界から完全に消失した。
後に残されたのは、綺麗に抉り取られた地面だけ。
「……実験体666が、一撃で消滅……。信じられない……。一体何者なの……?」
ヴァシリエフ博士の声は、恐怖ではなく、純粋な好奇心と、科学者としての歓喜に打ち震えていた。
「トンプソン」
ハリスが静かに命じる。
「分析結果を」
「はっ」
トンプソン中佐は冷静に頷くと、手元の端末を操作した。
メインスクリーンに、複雑なデータと波形が表示される。
スクリーンが切り替わり、日本の地図と、夥しい数の×印が表示された文書が映し出された。
「五年前、日本で一個人が陸上自衛隊の一師団を、わずか数時間で戦闘不能に陥れた事件がありました」
ハリスの目が、鋭く細められた。
「……日本で自衛隊を壊滅させた、あの都市伝説の男か。その亡霊が現れたとでも言うのか」
「その可能性が、極めて高いかと」
トンプソンは、さらに別のファイルを開いた。
それは、日本の公安警察から、非公式ルートで入手した極秘資料だった。
スクリーンに、学生服を着た、まだあどけなさの残る少年の顔写真が表示される。
「当時、最重要参考人と目されながら、忽然と姿を消した少年です。名は、ソウマ・タチバナ。今回の映像の男と、骨格、虹彩パターンを照合した結果……」
トンプソンは一度言葉を切り、断定的な口調で告げた。
「同一人物である確率、99.9パーセント。間違いありません、大佐。彼こそが、ソウマ・タチバナです」
司令室が、再び静寂に包まれた。
その沈黙を破ったのは、ヴァシリエフ博士の、狂気を帯びた甲高い笑い声だった。
「素晴らしい……! なんて素晴らしいの! これは、人類の進化の、全く新しい可能性そのものよ!」
彼女は両腕を広げ、まるで神の啓示を受けた預言者のように叫んだ。
「彼を捕獲しましょう、大佐! 今すぐに! 彼の身体、彼の細胞、彼の遺伝子……その全てが、私たちの『プロジェクト・ネメシス』を、次のステージへと引き上げるための、最高の鍵になるわ! 彼は……究極の実験体よ!」
その瞳は、もはや科学者のものではなかった。
未知の獲物を前にした、飢えた捕食者の光を宿していた。
ハリスは、そんなヴァシリエフを一瞥すると、冷ややかに口を開いた。
「無論だ。これほどの『戦略的価値』を持つ存在を、野放しにしておくわけにはいかん」
彼の関心は、人類の進化などではない。
ただ、ソウマ・タチバナという存在が持つ、国家さえも凌駕しかねない圧倒的な「力」。
それを兵器として管理し、利用すること。それだけだった。
ハリスは、コンソールの通信ボタンを押した。
「私だ。スミス中佐を呼べ」
ハリスの命令と同時に、司令室のサブモニターのいくつかが、施設内の各セクションの監視映像に切り替わった。
あるモニターには、巨大な檻の中で、涎を垂らしながら唸る、狼のような獣人の姿が映っている。
その首筋には『BS-001 "WOLF"』の刻印。
別のモニターでは、全身に電極を取り付けられ、虚ろな目で宙を見つめる青白い肌の女性が、念動力で巨大な鉄塊を浮かび上がらせていた。
『PS-Alpha "MIND"』というテロップが、無機質に点滅している。
さらに別のスクリーンでは、レーザー砲やプラズマライフルといった、現行の科学技術を遥かに超越した近未来兵器の設計図が、三次元ホログラムとなって回転していた。
ここは、人間の狂気が生み出した、魔の巣窟。
そして今、その全ての悪意が、たった一人の青年へと向けられようとしていた。
「ご命令を、大佐」
通信機から、冷静沈着な男の声が響いた。
デルタフォースの現場指揮官、ジョナサン・スミス中佐の声だ。
ハリスは、メインスクリーンに映る、黒いオーラを纏った蒼真の姿を、冷たい目で見据えながら、静かに、しかし絶対的な権威を込めて命じた。
「目標、ハーモニーバレー。ソウマ・タチバナを確保せよ」




