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第79章

 夕暮れの光が、ハーモニーバレーを優しい金色に染め上げていた。

 仕事を終えた蒼真は、町の中心にある雑貨屋の前で、図書館の仕事を終えた美月と待ち合わせをしていた。

 

 日中の熱気は和らぎ、涼やかな風が頬を撫でる。

 家々の煙突からは夕食の支度をする煙が立ち上り、どこからか香ばしいシチューの匂いが漂ってきて、蒼真の空腹を穏やかに刺激した。


「お待たせ、蒼真くん」


 背後から聞こえた愛しい声に振り返ると、美月が柔らかな笑みを浮かべて立っていた。

 夕陽を浴びて、彼女の艶やかな黒髪がきらきらと輝いている。

 

 雑貨屋の店主であるマクギーさんが、店の前で箒を使いながら「気をつけて帰んなよ、ソウマ、ミツキ!」と陽気に声をかけてくる。

 蒼真は軽く手を上げてそれに応えた。

 

 誰もが優しく、誰もが穏やか。

 この二年で、すっかり見慣れた光景。

 永遠に続くと思っていた、宝石のような日常。

 

 だが、その全てが、次の瞬間、ガラス細工のように粉々に砕け散った。


 ドゴォォォンッ!!


 突如、大地を揺るがす轟音と共に、町のパン屋の壁が内側から爆発するように吹き飛んだ。

 木片と石膏ボードの破片が、悲鳴を上げる間もなく宙を舞う。

 

 何が起きたのか、誰も理解できなかった。

 そして、粉塵の向こうから現れた「それ」を見て、町の人々の思考は完全に停止した。


「……な……んだ……あれは……」

 

 誰かが、かすれた声で呟いた。

 それは、悪夢そのものが具現化したかのような姿をしていた。

 

 身長は三メートルを優に超えているだろう。

 豚のように醜悪な顔には、黄ばんだ巨大な牙が突き出し、知性の欠片も見えない濁った眼球が、憎悪と飢餓にぎらついている。

 筋骨隆々とした緑色の皮膚は、まるで岩のように硬質で、その表面には不自然なまでに整然と筋肉が盛り上がっていた。

 

 何より異様なのは、その肩や背中に、皮膚を突き破るようにして埋め込まれた、鈍い銀色に光る金属プレートだった。

 首筋には、『No.666』という無機質な製造番号が焼きごてで押されている。

 

 (オーク……!? いや、違う……!)

 

 それは異世界で対峙した魔物たちとは、明らかに異質だった。


 グオオオオオオオオオッ!!


 獣の咆哮とは似て非なる、スピーカーが壊れたかのような不快な絶叫を上げ、その生物は破壊の限りを尽くし始めた。

 巨大な腕の一振りで、駐車してあったピックアップトラックが紙屑のように宙を舞い、地面に叩きつけられて炎上する。

 鋭く伸びた鉤爪が、雑貨屋の壁をバターのように切り裂いた。

 

「きゃあああああっ!」

「逃げろぉぉっ!」

 

 町は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変わった。

 人々はパニックに陥り、我先にと逃げ惑う。

 蒼真は咄嗟に美月の体を庇い、物陰に隠れた。

 

「蒼真くん、あれは……!」

「静かにしてろ、美月! 絶対にここから動くな!」

 

 蒼真の脳が、五年ぶりに戦闘モードへと切り替わる。

 どうする?  魔法を使うか?

 いや、ここで力を使えば、この町にはいられなくなる。

 だが、使わなければ、この町の人間が皆殺しにされる。

 思考が激しく明滅する中、蒼真の目に、信じられない光景が飛び込んできた。


「うおおおおおっ!」

 

 雄叫びを上げ、化け物に向かって真正面から突進していく男がいた。

 ジェイクだった。

 彼は、瓦礫の下で泣き叫ぶ一人の少年を庇うように、その前に立ちはだかったのだ。

 

 その手には、武器などない。

 あるのは、腰のツールベルトに差した、たった一本の鉄製の金槌だけ。

 

「ジェイク!  馬鹿野郎、やめろ!」

 

 蒼真の制止の声は、破壊音にかき消された。

 

「この化け物が!  俺たちの町で、好き勝手させてたまるかよ!」

 

 ジェイクは、恐怖を怒りで塗りつぶし、化け物の足元に躍りかかると、その巨大な足の甲に、渾身の力で金槌を叩きつけた。

 ガキンッ! と硬い金属音が響く。

 

 だが、化け物は眉一つ動かさない。

 まるで、蚊に刺されたかのように、ゆっくりと巨大な顔を下げ、足元で吠える小さな人間を見下ろした。

 その濁った瞳に、嘲笑うかのような光が宿る。


「危ないっ!」

 

 美月の悲鳴が響いた。

 化け物の右腕が、風を切る音と共に振り下ろされる。

 長さ三十センチはあろうかという、五本の黒く鋭い爪が、夕陽を反射して不気味に煌めいた。

 

 避けられない。

 誰もがそう思った。

 

 ザシュッ!!!


 肉が裂ける、生々しく、鈍い音が響き渡った。

 ジェイクの胸から、鮮血が噴水のように吹き上がった。


 頑丈なフランネルのシャツはたやすく引き裂かれ、その下の厚い胸板が、胸骨から脇腹にかけて、五本の深い溝となって抉られていた。

 

「……が……はっ……」

 

 彼は、信じられないという表情で自分の胸を見下ろし、そして、糸の切れた人形のように、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。

 びく、びくと痙攣する彼の体から、夥しい量の血が流れ出し、アスファルトを瞬く間に黒赤く染め上げていく。


 その光景を、蒼真は見ていた。

 時間が、止まった。

 

 耳元で、美月が悲鳴を上げているのが聞こえる。

 町の住民の絶叫も聞こえる。

 化け物の勝利を誇るかのような咆哮も。

 

 だが、蒼真の世界では、全ての音が消えていた。

 ただ、目の前で血の海に沈んでいく、親友の姿だけが、スローモーションのように映っている。

 

 金色の髪が、自らの血で赤く染まっていく。

 空の色をしていたはずの瞳が、虚ろに宙を見つめている。

 

 最高の相棒だ、と笑ってくれた、あの笑顔が。

 俺たちの仕事は町の歴史を作るんだ、と語ってくれた、あの誇りが。

 その全てが、今、無惨に踏みにじられ、消え去ろうとしていた。


 ――プチッ。


 蒼真の頭の中で、何かが切れる音がした。

 それは、この五年間、必死に築き上げてきた理性の堤防だった。

 平穏な日常という名の、脆く、儚い壁だった。

 

 壁が決壊し、その向こうから、五年もの間、心の奥底に封印してきたものが、濁流となって溢れ出した。

 憎悪。

 絶望。

 裏切りへの怒り。

 そして、全てを破壊し尽くす、純粋なまでの殺意。


「……ああ……ああああ……」

 

 蒼真の口から、呻き声が漏れた。

 彼の全身から、黒いオーラのようなものが陽炎のように立ち上り始める。

 それは、彼が持つ膨大な魔力が、封印を破って解放され始めた兆候だった。

 

 蒼真は、ゆっくりと立ち上がった。

 その顔には、もはや何の感情も浮かんでいない。

 ただ、その黒い瞳だけが、化け物でも、ましてや人間のものでもない、絶対零度の光を放っていた。


「……よくも……」


 地を這うような、低い声が漏れた。

 

「よくも、俺の親友を……俺の日常を……!!」

 

 化け物が、新たな獲物を見つけた、とばかりに蒼真に向き直る。

 蒼真は、ゆっくりと右手を天に掲げた。

 

 彼の周囲の空気が、急激に歪み始める。

 大気が悲鳴を上げ、空間そのものが彼の魔力に耐えきれずに軋む音が聞こえる。

 

 掲げられた右の掌に、ありえないほどの密度で、闇が集束していく。

 それは、光さえも飲み込む、絶対的な虚無の黒。宇宙の終焉を思わせる、漆黒の小太陽。


 「【虚無の牢獄アビス・プリズン】」


 次の瞬間、蒼真の掌から放たれた漆黒の球体は、音もなく空間を疾走し、その生物を包み込んだ。

 爆発は、起きなかった。

 ただ、静寂があった。

 

 黒い球体に飲み込まれた化け物は、悲鳴を上げる間もなく、その存在そのものが「消滅」した。

 肉体も、骨も、その醜悪な魂さえも、この世界の因果から完全に抹消され、文字通り、無に帰したのだ。

 後には、化け物が立っていた場所のアスファルトが、直径五メートルにわたって、まるで巨大なスプーンで抉り取られたかのように、綺麗に消失しているだけだった。

 しん、と世界が静まり返る。

 

 町の住民たちは、目の前で起きた超常現象を理解できず、ただ呆然と立ち尽くしていたのだった。

 

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