第78章
乾いた木材の匂いと、微かに漂う古いインクと蝋の香りが、蒼真の鼻腔をくすぐった。
ハーモニーバレーの中心に百年以上も佇む石造りの教会は、今、大規模な修復の真っ最中だった。
蒼真たちの仕事場は、その屋根裏。天井から吊るされた裸電球の光が、埃っぽくも神聖な空間を照らし出し、足元に散らばる木屑や工具の影を長く伸ばしている。
「ソウマ、そっちの梁、あと二インチほど上げてくれ! そう、そこだ!」
威勢のいい声が、屋根裏に響き渡った。
声の主は、ジェイク・ミラー。
蒼真の親友であり、この現場の親方だ。
脚立の上で、ジェイクは汗だくになりながら巨大な梁を支えている。
二十八歳という年齢以上にたくましい、日に焼けた腕の筋肉が、重さに耐えて力強く隆起していた。
着古したフランネルのシャツは汗で背中に張り付き、金槌を差し込んだ革のツールベルトが、彼の職人としての年季を物語っている。
そして、何よりも。
埃と汗で汚れた顔で、彼は太陽のように笑っていた。
太陽の光を溶かし込んだようなブロンドの髪が額に張り付き、その下で、空の色を映した碧眼が悪戯っぽく輝いている。
その笑顔を見るたび、蒼真の胸の奥が、ちくりと甘く痛んだ。
――アルフレッド。
記憶の彼方にいる、かけがえのない友。
異世界で出会った、金髪碧眼の騎士。
絶望の淵にいた蒼真に、初めて友情という光を教えてくれた男。
ジェイクの、裏表のない屈託のない笑顔は、あの頃のアルフレッドと驚くほどよく似ていた。
「よし、こっちは固定できた! そっちも頼む!」
「ああ、任せろ」
蒼真は返事をしながら、寸分の狂いもなく梁を所定の位置に持ち上げた。
常人であれば三人掛かりでようやく持ち上がるような巨大なオーク材の梁を、彼は眉一つ動かさずに支えている。
その超人的な膂力は、異世界で得た勇者の力の残滓だった。
だが、ジェイクはそれを「ソウマは生まれつきの力持ちなんだな!」と、何の疑いもなく信じてくれている。
その純粋さが、蒼真には何よりもありがたかった。
釘を打ち込む金槌の音が、リズミカルに響く。カン、カン、カン――。
それは、剣を打ち鳴らす音でも、魔法が炸裂する轟音でもない。
何かを創造し、未来へと繋いでいくための、平和で、力強い音だった。
蒼真は、この音を聞いていると、自分がただの人間でいられるような気がした。
作業が一段落した時、屋根裏の入り口から、ひょっこりと老婆が顔を覗かせた。
「ジェイク、いるかい?」
「おや、ミセス・マクダウェル。どうしました? 」
ジェイクは脚立からひらりと飛び降りると、老婆に駆け寄った。
「それがね、うちの裏の柵が、昨日の風で壊れちまってね。羊が逃げ出しちまわないか心配で……。アンタに頼むのが一番だと思って来たんだが、忙しいところ、すまないねぇ」
申し訳なさそうに皺だらけの手を合わせる老婆に、ジェイクは「はっはっは」と豪快に笑ってみせた。
「そんなこと、気にしないでください! ばあちゃんが困ってるってんなら、教会の修復より優先順位は上ですよ!」
彼はそう言うと、腰のツールベルトから手際よく工具を取り出し始めた。
「ソウマ、すまないが、ここの後片付けを頼めるか? 俺はミセス・マクダウェルの家の柵を直してくる。三十分もあれば戻るから」
そう言って、彼は老婆の肩を優しく支えながら、階段を降りていった。
その背中を見送りながら、蒼真は小さく息を吐いた。
困っている人間を決して見過ごせない、その真っ直ぐすぎるほどの正義感。
それは、貴族でありながら弱き者のために剣を振るった、アルフレッドの姿そのものだった。
蒼真の口から、思わず言葉がこぼれた。
「……君みたいな人間がいるから、この町は平和なんだろうな」
誰に言うでもない呟きは、埃の中で踊る光の粒子に吸い込まれて、静かに消えていった。
◇
昼休み。
蒼真とジェイクは、教会の鐘楼の足場に腰掛け、眼下に広がるハーモニーバレーの絶景を眺めながら、昼食をとっていた。
美月が作ってくれたサンドイッチを頬張りながら、ジェイクが感嘆の声を上げる。
「それにしても、ミツキの作るサンドイッチは世界一だな! 町のパン屋の親父が『うちのパンを最高に活かしてくれるのは、ソウマの奥さんだけだ』って自慢してたぜ」
「まだ奥さんじゃない」
「時間の問題だろ? 町の連中はみんな、お前たちの結婚式をいつやるのかって、今から賭けを始めてるくらいだ」
からかうようなジェイクの言葉に、蒼真は照れ隠しに黙々とサンドイッチを口に運んだ。
眼下には、緑の牧草地がパッチワークのように広がり、その間を縫うようにして小さな小川がキラキラと輝いている。
赤い屋根の家々がミニチュアのように点在し、家々の煙突からは、昼食の支度をする煙が細く立ち上っていた。
平和という言葉を、そのまま形にしたような風景だった。
「なあ、ソウマ」
ジェイクが、ふと真面目な声で言った。
「お前、この町に来て、もう二年になるんだな」
「……ああ」
「最初は、ずいぶんと警戒心の強い奴だと思ったよ。口数も少ないし、何考えてるか分からなかった。何か、とんでもない過去でも背負ってるんじゃないかってな」
ドキリ、と蒼真の心臓が跳ねた。
だが、ジェイクは穏やかな目で、ただ目の前の風景を見つめている。
「でも、違った。お前はただ、不器用なだけだったんだな。本当は誰よりも優しくて、誠実で……仕事の腕は、この俺が保証する」
ジェイクは蒼真の方に向き直ると、あの太陽のような笑顔を向けた。
「君と働けて、本当に良かった。ソウマ、お前は最高の相棒だ」
その言葉が、蒼真の心の最も柔らかな部分を、強く打ち抜いた。
――最高の相棒。
いつか、どこかで、誰かが言ってくれた言葉。
傷だらけになりながら、背中を預け合い、アルフレッドは確かにそう言ったのだ。
『お前は最高の相棒だ』と。
蒼真の目の奥が、熱くなった。
目の前にいるのはジェイクだ。
アルフレッドではない。
そんなことは分かっている。
だが、彼の魂が放つ輝きは、あまりにも似すぎていた。
「……俺の方こそだ」
蒼真は、ようやくそれだけを絞り出した。
「ジェイク。お前と出会えて、良かった」
その言葉に、ジェイクは満足そうに頷くと、残りのサンドイッチを大きな口で一気に平らげた。
「よし! 感傷に浸るのはここまでだ! 午後も気合入れていくぞ、相棒!」
「ああ」
蒼真は、ジェイクの隣で空を見上げた。
雲ひとつない、どこまでも澄み渡った青空。
(ジェイクといると、アルフレッドと過ごした日々を思い出す。エリーナやルナと笑い合った、あの温かい日々を……)
そして今、この現実世界で、蒼真は再びその温もりを手に入れようとしている。
美月という愛する人がいて、ジェイクという親友がいる。
(こんな平穏が、ずっと続けばいいのに)
心の底から、そう願う。
蒼真は、青空の向こうに、まだ見ぬ脅威の気配など微塵も感じることなく、ただ、すぐ隣で笑う友の存在を、心に深く刻みつけていた。




