第77章
木漏れ日が、古いオーク材の床に踊るように揺れていた。
窓の外から聞こえてくるのは、鳥たちの穏やかな歌声と、遠くで草を食む羊の鳴き声だけ。
淹れたてのコーヒーが放つ芳醇な香りが、焼きたてのトーストの香ばしさと混じり合い、この家の朝が来たことを告げていた。
蒼真は、テーブルの向かいで静かに目を閉じ、祈るように両手を組んでいる美月を見つめていた。
日本を脱出し、世界を放浪した五年という歳月は、二人を大きく変えた。
蒼真は、もはや十五歳の頃の面影を残してはいなかった。
現在二十歳。絶え間ない逃亡生活と、肉体労働によって、その体つきはしなやかな鋼のように引き締まっている。
肩幅は広くなり、Tシャツの上からでも分かるほど厚くなった胸板と、丸太のように逞しい腕には、大工仕事でついた無数の小さな傷跡が刻まれていた。
かつて虐待と絶望に支配されていた少年の陰鬱な表情は消え去り、日に焼けた精悍な顔には、穏やかな落ち着きが宿っている。
だが、その静かな黒い瞳の奥には、今もなお、全てを焼き尽くすほどの絶望の残滓と、決して消えることのない力が、深い湖の底に眠る古代龍のように静かに息を潜めていた。
それは、彼がかつて異世界で勇者となり、そして現実世界で復讐者となった証。
神の如き力を持ちながら、今はそれを無意識の領域にまで押し込め、ただの人間として生きることを選んだ男の姿がそこにあった。
「……蒼真くん? 私の顔に何かついてる?」
ふと目を開けた美月が、不思議そうに小首を傾げた。
彼女もまた、十六歳の少女から、二十一歳の美しい女性へと成長していた。
透き通るような白い肌と、長いまつ毛に縁どられた大きな瞳は変わらないが、その表情には少女の頃の儚さに加え、全てを受け入れるような母性的な優しさと、芯の強さが同居している。
艶やかな黒髪は、邪魔にならないようにシンプルなポニーテールに結ばれ、彼女が身に着けた生成り色のワンピースによく映えていた。
「いや……綺麗だなって、改めて思ってただけだ」
素直な言葉に、美月の頬がふわりと赤く染まる。
「もう、朝から……。それより、早く食べないと遅刻しちゃうわよ」
そう言って、彼女は自分の皿に盛られたスクランブルエッグにフォークを入れた。
その何気ない仕草の一つ一つが、蒼真にとっては失われたはずの日常そのものであり、何よりも尊い宝物だった。
テーブルに並ぶのは、特別なものではない。
こんがりと焼かれたトースト、バターの香りが食欲をそそるスクランブルエッグ、地元産の新鮮な野菜で作ったサラダ、そしてベーコン。
だが、蒼真にとっては、これ以上ないほどの贅沢だった。
最初の二年、彼らは息を潜めるように生きていた。
カナダの雪深い山小屋で、イギリスの霧深い港町で、フランスの喧騒に満ちた路地裏で。
いつ追手が現れるかという恐怖に怯え、温かい食事どころか、安心して眠る夜さえ満足に手に入らなかった。
「こんなにのんびり朝食が食べられるなんて、最初の頃は考えられなかったな」
蒼真がぽつりと呟くと、美月はフォークを置いて、静かに頷いた。
「ええ、でも大丈夫。このハーモニーバレーは、本当に静かで、いい人たちばかりだもの」
彼女の言葉に嘘はなかった。
ロッキー山脈の麓に抱かれるように広がるこの谷間の町は、時間が止まったかのように穏やかだった。
人口は千人にも満たず、誰もが顔見知りで、よそ者であるはずの自分たちを、彼らは何の偏見もなく受け入れてくれた。
「そういえば、昨日、図書館に面白い本が入ったのよ」
美月が楽しそうに語り始めた。彼女は町の小さな図書館で司書として働いている。
「『竜の棲む谷の冒険』っていう古い絵本なんだけど、子供たちが夢中になっちゃって。特にティムっていう男の子が、『ミツキ! このドラゴンは本当にいるのかい?』って何度も聞いてくるの。可愛くて」
その光景が目に浮かぶようで、蒼真の口元が自然と緩んだ。
彼女が子供たちに慕われ、町の中心で微笑んでいる姿は、蒼真の心を温かく満たしてくれる。
「お前が楽しそうで、何よりだ」
「蒼真くんこそ。最近、仕事の話をする時、本当に楽しそうよ」
美月の言葉に、蒼真は一人の男の顔を思い浮かべた。
「ああ。ジェイクと組んでると、本当に退屈しないからな」
ジェイク・ミラー。
蒼真が働く建設会社『ミラー・アンド・サンズ』の若き親方であり、この町でできた初めての親友だった。
二十八歳の彼は、まるで物語から抜け出してきたかのような好青年だった。
日に焼けた肌に、太陽の光を吸い込んだようなブロンドの髪、そして悪戯っぽく輝く碧眼。
何より、彼が浮かべる温厚な笑顔は、蒼真の記憶の奥底に眠る、かけがえのない友人の面影を色濃く宿していた。
――アルフレッド。
異世界で、初めて蒼真に「仲間」という温かさを教えてくれた騎士。
ジェイクの、困っている人間を決して見過ごせない真っ直ぐな正義感や、仕事に対する誠実な姿勢は、あの頃のアルフレッドと驚くほどよく似ていた。
「この前なんて、屋根の梁を組むのがどうしても上手くいかなくてさ。普通なら一日かかる作業だったんだが、ジェイクが『ソウマ! 俺とお前の筋肉と頭脳があれば、半日で終わる!』なんて無茶を言い出して」
「まあ、それでどうなったの?」
「どうなったもこうなったも……結局、日が暮れるまでかかった。二人して埃まみれになって、最後は教会のベンチでへたり込んでたよ。でも、ジェイクの奴、『なあソウマ、俺たちの仕事は、こうやって町の歴史を作ってくんだぜ』なんて言って、満天の星空の下で笑うんだ。敵わないよ、ああいう男には」
蒼真は、自分でも気づかないうちに、心からの笑みを浮かべていた。
力を振るうのではない。
ただ、自分の腕と技術で、人々の暮らしを支えるものを作り上げていく。
汗を流し、仲間と笑い合い、一日の終わりに心地よい疲労と共に眠りにつく。
そんな、人間としての当たり前の喜びに、彼は満たされていた。
「本当に、いい人なのね、ジェイクさん」
美月が嬉しそうに微笑む。
「あなたがそんなふうに誰かの話をするの、本当に久しぶりに見た気がするわ」
その言葉に、蒼真はハッとした。そうだ、俺は笑っていたのか。心の底から。
復讐に身を焦がしていた頃、蒼真の世界から色は失われ、感情は凍り付いていた。
美月の前でだけ、かろうじて人間らしさを保てていたに過ぎない。
だが、今は違う。
ジェイクという友を得て、蒼真の世界は再び、ささやかながらも確かな彩りを取り戻し始めていた。
食事を終え、二人は並んで窓辺に立った。
窓の外には、絵画のように完璧な風景が広がっている。
緩やかな緑の丘がどこまでも続き、のんびりと草を食む羊の群れが白い点となって散らばっている。
澄み切った青空と、遠くにそびえるロッキーの雄大な山並み。
風が運んでくる新鮮な草の匂いと、土の匂い。
ゴーン……ゴーン……。
谷の中心に立つ、石造りの古い教会の鐘が、正午を告げるために鳴り響いた。
その荘厳で、けれどどこまでも優しい音色は、このハーモニーバレーの平穏そのものだった。
「……綺麗ね」
美月がうっとりと呟き、蒼真の逞しい腕にそっと寄り添った。
彼女の柔らかな体温と、シャンプーの甘い香りが伝わってくる。
蒼真は、その華奢な肩を強く、しかし優しく抱き寄せた。
「ああ、綺麗だ」
目の前の風景だけではない。
この腕の中にいる存在こそが、彼の世界の全てだった。
「今度こそ、本当に……平穏な生活を続けられそうだ」
それは、心の底から湧き上がってきた希望の言葉だった。
もう、誰にも脅かされることのない、二人だけの安息の日々。
この場所でなら、それが手に入ると、本気で信じ始めていた。
その、瞬間だった。
蒼真の視界の遥か上空を、一筋の飛行機雲が、鋭利な刃物のように空を切り裂いていくのが見えた。
ごく普通の旅客機だろう。
だが、蒼真の瞳が、一瞬だけ、かつての復讐者のそれへと変わる。
網膜が捉えた高度、速度、進行方向を、脳が瞬時に分析し、脅威レベルを判定する。
それは、五年経った今でも消すことのできない、体に染みついた生存本能だった。
――脅威レベル、ゼロ。問題なし。
内なる声が告げる。
蒼真はゆっくりと息を吐き、目の前の平穏な世界に意識を戻した。
「……蒼真くん?」
彼の微かな変化を、やはり美月は見逃さなかった。
彼女は不安そうに蒼真の顔を見上げる。
「大丈夫よ」
美月は、蒼真の大きな手に、自分の華奢な手をそっと重ねた。
「もう、何も起こらない。私たちが、それを望んでいる限り」
その言葉と温もりが、蒼真の心に残っていた最後の氷を、静かに溶かしていく。
「……ああ、そうだな」
蒼真は微笑み返し、彼女の手を強く握り返した。
二人は仕事へ向かう支度を始めた。
蒼真は年季の入ったワークブーツの紐を結び、美月は図書館で借りてきた本をトートバッグにしまう。
「いってきます」
「いってらっしゃい。今日はハンバーグだから、楽しみにしててね」
ありふれた、けれど何よりも尊い挨拶を交わし、蒼真は玄関のドアを開けた。
目に飛び込んできたのは、どこまでも広がる青い空と、生命力に満ち溢れた緑の谷。
この日常を。この温もりを。この腕の中にある愛を。
今度こそ、何があっても、俺が守り抜く――。




