第72章
田代師団長の非情な号令が、静かな夜明けを切り裂いた。
その声は、前線指揮所から数キロ離れた、第2特科連隊の陣地にも、クリアな電子音声となって届いていた。
「――撃ち方、始め!」
号令を発したのは、第2特科連隊長・佐藤三佐。
自衛隊の中でも、砲撃戦術のスペシャリストとして知られる、技術者肌の軍人だ。
細身で、常に塵一つない清潔な戦闘服に身を包み、銀縁の眼鏡の奥の瞳は、まるで獲物を分析する研究者のように冷徹な光を宿している。
彼の目の前には、日本の誇る最新鋭の155mm榴弾砲FH-70が、十二門、まるで巨大な鋼鉄の昆虫のように、整然と並んでいた。
「てぇっ!」
佐藤の号令一下、各砲の砲手たちが一斉に叫ぶ。
次の瞬間、世界から音が消えた。
いや、正確には、一つの巨大な轟音だけが、世界を支配した。
ゴオオオオオオオオオッ!
十二門の榴弾砲が、同時に火を噴いた。
大地が揺れ、空気が震え、衝撃波が周囲の木々を薙ぎ倒す。
砲口から吐き出された灼熱の閃光が、まだ薄暗い早朝の空を一瞬だけ真昼のように照らし出した。
発射の反動で、数十トンもある砲身が大きく後退し、地面に固定された駐鋤が土を深く抉る。
硝煙の、鼻を突く焦げ臭い匂いが、あたり一面に立ち込めた。
一発あたり四十キログラムを超える鉄の塊が、音速を超えて空を切り裂いていく。
放物線を描きながら、数キロ先の目標――蒼真が潜む、教団施設へと吸い込まれていく。
佐藤は、双眼鏡を構え、その着弾予測地点を冷静に見つめていた。
彼の計算によれば、誤差は数メートル以内。
第一射は、施設の中心部、最も大きな居住棟を完全に破壊するはずだ。
この物理的な質量と運動エネルギーの暴力からは絶対に逃れられない。
それが、彼の信じる科学であり、戦術だった。
◇
「きゃあああああああっ!」
耳をつんざくような悲鳴を上げたのは、美月だった。
拡声器から響いた号令と、遠くで山が燃えるかのような閃光。
その数秒後、世界を揺るがすような轟音が、時間差で襲ってきた。
それは、音というよりも、純粋な暴力の塊だった。
窓ガラスが、音もなく砕け散る。建物の壁が、みしみしと悲鳴を上げた。
ドッゴオオオオオオンッ!
続けざまに、凄まじい爆発音が、施設の敷地内で炸裂した。
蒼真と美月がいた居住棟から、わずか数十メートル先。
昨日まで、元信者たちが和やかに食事をしていた、あの大きな食堂だった。
爆炎が、巨大なオレンジ色の花のように咲き乱れる。
建物の屋根が紙細工のように吹き飛び、壁が砕け散り、コンクリートの破片と土砂が、黒い噴煙と共に空高く舞い上がった。
衝撃波が、二人のいる建物をも激しく揺さぶる。
立っていることすらままならず、美月は床にへたり込んだ。
「うわあああああっ!」
「助けてくれえええ!」
外から、阿鼻叫喚の悲鳴が聞こえてくる。
早朝の祈りのために広場に集まっていた元信者たちが、パニックに陥っていた。
彼らのすぐ近くで、次々と着弾する砲弾。
爆風で吹き飛ばされる者、破片を浴びて血を流す者、恐怖のあまり腰を抜かして動けなくなる者。
昨日までの、あの穏やかで平和な共同体は、一瞬にして、地獄の様相を呈していた。
「……っ、貴様らあああああっ!」
その光景を目の当たりにした瞬間、蒼真の全身から、殺意と憎悪に満ちた魔力が、黒いオーラとなって爆発的に噴出した。
彼の瞳が、人間のものではない、禍々しい深紅に染まる。
怒り。
裏切られた異世界での、あの絶望的な怒り。
純粋な破壊衝動が、蒼真の理性を焼き切ろうとしていた。
(――俺の、俺たちの平穏を、よくもッ!)
蒼真は、美月を背後にかばうように立ち、天を睨みつけた。
空の彼方から、第二射、第三射であろう、無数の黒い点が、死神の鎌のように迫ってくるのが見えた。
蒼真の周囲の空間が、陽炎のようにぐにゃりと歪む。
目には見えない、しかし絶対的な魔力の壁。
次の瞬間、空中で、信じられない光景が繰り広げられた。
施設に到達するはずだった数十発の砲弾が、上空数百メートルの、何もない空間で、一斉に炸裂したのだ。
カッ、カッ、カッ、と、まるで巨大なストロボを連続で焚いたかのように、空が明滅する。
爆発音は、地上に届く前に、くぐもった音へと変わり、衝撃波も、まるで分厚いゼリーに阻まれたかのように、地上には到達しない。
空には、花火のように、無数の小さな爆炎の華が咲き乱れていた。
◇
「みんな……怪我をしてる……」
美月の視線の先には、最初の着弾で傷つき、倒れている元信者たちの姿があった。
腕から血を流す老人、足を引きずって逃げ惑う女性、泣き叫ぶ子供。
「私たちの……せいだ……。私たちが、ここにいるから……」
美月の美しい顔が、自責の念で歪む。
そうだ、彼らは、蒼真と自分を慕って、ここに残っただけなのだ。
それなのに、国家の攻撃に巻き込まれ、傷ついている。
この平穏な場所を、戦場に変えてしまったのは、紛れもなく自分たちなのだ。
◇
「――なんだと!? 全弾、目標手前で爆発だと!?」
前線指揮所で、佐藤三佐が、ヘッドセットから聞こえてくる報告に、素っ頓狂な声を上げた。
彼の目の前のモニターには、観測班が送ってくる映像が映し出されている。
そこには、先ほどまで彼が信じて疑わなかった、科学的弾道計算の結果とは、全く異なる光景が広がっていた。
砲弾が、見えない壁にぶつかるように、空中で爆発している。
まるで、SF映画のワンシーン。
いや、ファンタジーだ。
「ば、馬鹿な……! そんなことが、あり得るはずがない!」
佐藤は、眼鏡の奥の目をカッと見開き、混乱のままに叫んだ。
彼の科学的常識と物理法則が、今、目の前で、音を立てて崩れ去っていく。
「連隊長! 第二射、第三射も同様です! 目標に到達できません!」
「くそっ、どうなっている!?」
佐藤は、唇を噛み締めた。
プライドをズタズタに引き裂かれるような屈辱。
だが、彼は技術者であると同時に、軍人だった。
一つの手段がダメなら、次の手を打つまで。
「……プランBに移行する」
佐藤は、冷静さを取り戻そうと、深く息を吸った。
「榴弾砲、攻撃中止! 地対地ミサイル部隊に告ぐ! 目標、橘蒼真! 誘導弾による連続攻撃を開始せよ!」
通常弾がダメなら、誘導弾ならどうだ。
自ら目標を追尾するミサイルならば、あの不可解な防御網を掻い潜れるかもしれない。
それは、藁にもすがるような、しかし、彼に残された唯一の合理的な選択肢だった。
佐藤の号令を受け、陣地の後方で待機していた、88式地対艦誘導弾を改良した、地対地ミサイルの発射車両が、その発射筒を天に向けた。
シュゴオオオオッ!
白い煙の尾を引きながら、六発のミサイルが、連続して空へと舞い上がる。
最新の誘導システムを搭載した、鋼鉄の鷹。
それは、確実に目標を捉え、破壊するはずだった。
◇
「――無駄だ」
施設の中から、地獄の底から響くような、蒼真の低い声が漏れた。
彼は、空を飛翔する六条の光の筋を、冷ややかに見据える。
そして、右手を、ゆっくりと天に掲げた。
「――『雷帝の槍』」
詠唱と同時、蒼真の掲げた右手に、紫電が迸る。
バチバチッ、と空気が焦げる音と共に、雷の魔力が、一本の巨大な槍の形へと収束していく。
次の瞬間、蒼真の頭上の空が、にわかに暗雲に覆われ、雷鳴が轟いた。
ゴロゴロゴロ……!
そして、天から、地へと。
六条の、巨大な紫色の雷が、まるで神の怒りのように、地上目掛けて降り注いだ。
その雷は、意思を持っているかのように、正確に、飛来する六発のミサイルを、一撃で貫く。
空中で、六つの巨大な爆炎が、時間差なく、同時に咲き乱れた。
ミサイルの破片が、雨のように地上に降り注ぐが、それもまた、施設の周囲に張られた見えない障壁に阻まれ弾かれていく。
◇
「……馬鹿な」
指揮所で、その光景を見ていた佐藤は、力なく呟き、その場にへたり込んだ。
ミサイルさえも、届かない。
雷を、自在に操る。
あれは、人間ではない。
神か、悪魔か。
自分たちは、一体、何と戦っているのだ。




