第71章
夜の闇が薄れ、東の空が乳白色に染まり始める頃。
蒼真は、静かに目を覚ました。
隣で眠る美月の、穏やかな寝息が聞こえる。
規則正しく上下する肩、無防備に開かれた唇。
その寝顔は、蒼真が命を懸けて守ると誓った、世界の中心そのものだった。
昨夜、感じた無数の気配は、夜明けが近づくにつれて、その密度を増していた。
それはもはや、隠密行動のレベルではない。
地を揺るがす、重い振動。
空気を切り裂く、金属の軋み。
そして、数えきれないほどの、殺気とも違う、冷徹な『意志』の集合体。
蒼真は、美月を起こさないように、そっとベッドを抜け出した。
足音を殺して窓辺に寄り、カーテンの隙間から外を覗く。
その瞬間、彼は息を呑んだ。
眼下に広がる光景は、悪夢そのものだった。
夜明け前の薄明かりの中、施設の周囲を取り囲む山々の稜線が、無数の鋼鉄のシルエットで埋め尽くされている。
それは、昨日までの、木々と岩肌だけの穏やかな自然の姿ではなかった。
迷彩塗装を施された、角張った車体。
長く伸びた砲身が、静かに、しかし明確な敵意をもって、この施設に向けられている。
90式戦車、89式装甲戦闘車がずらりと並び、さらにその後方には、巨大な自走砲が、まるで獲物を待ち構える肉食獣のように、その巨体を大地に据えていた。
木々の間にも、人影が見える。
完全武装した、陸上自衛隊の普通科隊員たちだ。
小銃を構え、一切の私語なく、完璧な統制の下で包囲網を形成している。
その数は、一目で千や二千ではないと分かった。
山全体が、一つの巨大な軍事要塞へと変貌していた。
ディーゼルエンジンの低い排気音、無線機から漏れるノイズ、兵士たちのブーツが土を踏む音。
それらが混じり合い、死のように静かな、しかし圧倒的なプレッシャーとなって、蒼真の肌をピリピリと刺した。
「……本気、だな」
蒼真の口から、乾いた声が漏れる。
警察でも、ヤクザでもない。
国家そのものが、その牙を剥いてきた。
その物量は、蒼真の想像を遥かに超えていた。
その時だった。
施設の敷地全体を震わせるように、巨大な音が響き渡った。
それは、警告音に続き、男の、威厳に満ちた声だった。
『――施設内にいる、橘蒼真に告ぐ』
拡声器を通した、感情の乗らない、しかし腹の底に響く声。
その声は、山々に反響し、まるで天からの宣告のように、地上に降り注いだ。
「……っ、何、この音……?」
ベッドの上で、美月が身じろぎし、不安そうな声で目を覚ました。
彼女は、蒼真のただならぬ気配を感じ取り、慌ててベッドから起き上がると、彼の隣に駆け寄った。
「蒼真くん……?」
美月もまた、窓の外の光景に気づく。
彼女の大きな瞳が、信じられないものを見るかのように、大きく見開かれた。
「な……に、あれ……。戦車……? どうして、こんなところに……」
その唇が、わなわなと震えている。
無理もない。昨日まで、野菜を収穫し、穏やかな食事を楽しんでいた日常が、一夜にして戦場へと変わってしまったのだ。
『私は、陸上自衛隊第一師団長、田代猛。政府の命令に基づき、君の身柄を確保するため、ここに来た』
声は続く。
その言葉は、施設の他の居住区にも届いていた。
窓という窓から、眠たげな顔を覗かせていた元信者たちが、外の光景を認識した瞬間、甲高い悲鳴が、あちこちから上がり始めた。
「な、なんだありゃあ!?」
「自衛隊だ! なんで自衛隊が!?」
パニック。
昨日までの穏やかな共同体は、一瞬にして、恐怖に支配された烏合の衆と化した。
人々は建物を飛び出し、右往左往し、泣き叫んでいる。
その姿は、蒼真が異世界で見た、魔物の襲撃に怯える村人たちの姿と、何ら変わりはなかった。
『我々は、君以外の者に危害を加えるつもりはない。しかし、抵抗を続けるのであれば、その限りではない』
冷徹な宣告。
それは、元信者たちを『人間の盾』として利用することも厭わないという、暗黙の脅迫だった。
「ひどい……」
美月が、蒼真の腕を強く掴んだ。
その指先は、氷のように冷たい。
「あの人たちには、関係ないのに……!」
「ああ、そうだな」
蒼真は、パニックに陥る人々を、冷めた目で見下ろしていた。
そして、視線を隣の美月に移す。
恐怖に震えながらも、その瞳には、他人を思いやる優しさと、理不尽への怒りが宿っていた。
蒼真は、美月の冷たい手を、自らの手で強く握り返した。
その手は、まるでマグマのように熱い。
「大丈夫だ、美月」
蒼真の声は、不思議なほど落ち着いていた。
「俺が、お前を守る」
その言葉には、絶対的な自信と、揺るぎない決意が込められていた。
◇
施設から数キロ離れた山中に設営された、前線指揮所。
迷彩ネットで覆われたテントの中は、最新の電子機器と、張り詰めた空気で満たされていた。
その中央で、師団長・田代猛は、双眼鏡を手に、ターゲットである施設をじっと見つめていた。
「……包囲、完了しました」
無線機から、第1戦車連隊長・木村一佐の、冷静な報告が入る。
彼は、がっしりとした体格の、戦車乗りらしい無骨な男だ。
その声には、最新鋭の戦車部隊を率いる者としての、絶対的な自信が窺えた。
「こちら、第5普通科連隊。包囲網、最終圧縮完了。いつでも突入可能です」
続いて、歩兵部隊を率いる中村一佐の声。
部下思いで知られる彼は、わずかに声に緊張を滲ませていた。
彼の部下たちが、今まさに、未知の脅威と最初に接触するのだ。
報告を受けた田代は、マイクを手に取った。
彼の決断一つで、この静かな山間に、鉄と炎の嵐が吹き荒れることになる。
数千の部下の命が、彼の双肩にかかっている。
だが、迷いはなかった。
これは、国家の命令であり、この国の平和を守るための、正当な軍事行動なのだ。
「全隊に告ぐ」
田代の声が、全ての部隊の無線機に響き渡る。
「これより、最終通告を行う。十秒後、応答がない場合は、作戦フェーズ1に移行する。各隊、攻撃準備」
田代は、再び拡声器のマイクを握った。
その表情は、一切の感情を排した、鉄仮面のようだった。
『……橘蒼真。これが最後の警告だ。直ちに投降せよ』
その声が、再び施設に響き渡る。
『十、九、八……』
無慈悲なカウントダウンが始まった。
『……三、二、一……』
カウントが、ゼロになる。
『――攻撃、開始!』
田代の、非情な号令が下された。
その瞬間。
施設を取り囲む山々の稜線が、一斉に火を噴いた。
数十門の榴弾砲が天に向かって咆哮し、無数の砲弾が、黒い軌跡を描きながら、空へと撃ち上げられる。
蒼真と美月が築き上げた、束の間の平穏を、粉々に打ち砕くために。
戦いの火蓋は、今、切られた。




