第70章
時刻は、夕暮れ。
山懐に抱かれた、かつて「真理の光明会」の本拠地だった施設は、今やその狂信的な熱気をすっかりと失い、穏やかな夕陽に照らされていた。
空は茜色と深い藍色のグラデーションに染まり、西の稜線に太陽が最後の輝きを放っている。
ひぐらしの鳴く声が、どこからともなく聞こえてきて、夏の終わりの気配を運んでいた。
「……きれい」
美月が、ぽつりと呟いた。
夕陽に照らされた彼女の横顔は、まるで精巧なガラス細工のように儚く、そして美しかった。
透き通るような白い肌、長いまつ毛に縁取られた大きな瞳、さらりと風に流れる黒髪。
蒼真が教団から救出した時とは比べ物にならないほど、その表情には血の気が戻り、穏やかな光が宿っている。
今はシンプルな白いワンピースに身を包み、その姿は都会の喧騒を知らない、森の妖精のようにも見えた。
「ああ」
蒼真も短く応じる。
彼の視線の先には、美月と同じ夕焼けと、そして眼下に広がる、ささやかな営みの光景があった。
施設の残骸と化した部分とは対照的に、居住区として使われているエリアには、生活の匂いが満ちている。
元信者だった人々が、今は鍬を手に、黙々と畑を耕していた。
土の匂い、汗の匂い、そして育ち始めた野菜の青い香り。
それらが混じり合って、確かな「生」の息吹を放っていた。
「神様」
畑仕事をしていた中年の男が、蒼真の姿に気づき、慌てて駆け寄ってくる。
その手は土にまみれ、額には汗が光っていたが、その表情は心からの喜びに満ちていた。
蒼真が軽く手を上げると、男は深々と頭を下げた。
「神様のおかげで、こうしてまた土をいじることができます。本当に、ありがとうございます」
「俺は神様じゃない」
何度目になるか分からない訂正を、蒼真は苦笑混じりに口にする。
教団が壊滅した後、行き場を失った元信者を、蒼真はこの場所に留まることを許可した。
彼らは、聖堂院慈海という偽りの神を失い、今度は蒼真を新たな「神」として崇め奉った。
蒼真はそれを否定し続けたが、彼らの深い感謝と畏敬の念は、そう簡単には変わらないようだった。
「美月様も、お元気そうで何よりです」
男は、美月にも丁寧に頭を下げる。
「はい、ありがとうございます」
美月は、少しはにかみながらも、柔らかな笑顔で応じた。
彼らだけではない。
施設の清掃をしている女性たち、壊れた建物の修復作業をしている若者たち、井戸端で洗濯物を畳んでいる老婆たち。
誰もが蒼真と美月の姿を見つけると、作業の手を止め、恭しく、そして温かい眼差しで挨拶をしてくる。
そこには、かつての狂信的な光はなく、ただ、平穏な日常を与えられたことへの、素朴な感謝だけがあった。
「ここでの生活、本当に平穏ね」
二人きりになると、美月がしみじみと言った。
「みんな、自分の役割を見つけて、一生懸命生きてる」
「そうだな」
蒼真は頷く。
この場所は、彼が作り出した、小さな王国だった。
食料は畑で自給自足。
水も、彼が掘り当てた井戸から湧き出る。
誰も彼らを脅かさない。
誰も彼らを搾取しない。
そこにあるのは、労働と、食事と、休息。
人間が生きる上で、本当に必要なものだけの、原始的で、しかし満ち足りた共同体。
「やっと、見つかった気がする。俺たちが、安心して安らげる場所が」
蒼真の言葉に、美月は嬉しそうに微笑み、彼の肩にこてんと頭を預けた。
その温かさと重みが、蒼真にとっては何物にも代えがたい宝物だった。
異世界で手に入れた仲間との絆は、偽りだった。
だが、今、この腕の中にある温もりは、紛れもない本物だ。
この温もりを守るためなら、なんだってできる。
◇
夕食は、元信者たちが共同で使う、大きな食堂で取った。
天井の高い、体育館のようなだだっ広い空間。
長い木のテーブルと椅子がいくつも並べられ、壁際には調理場がある。
今日のメニューは、採れたての夏野菜をふんだんに使ったカレーライスと、新鮮な卵で作ったスープだった。
「美味しい……!」
一口食べた美月が、ぱあっと顔を輝かせる。
食堂の中は、人々の活気で満ちていた。
子供たちのはしゃぐ声、大人たちの笑い声、食器の触れ合う音。
誰もが、今日の労働の成果を味わい、明日の活力を得ている。
蒼真は、その光景を黙って見つめていた。
自分が異世界で夢見た、仲間たちとの食卓。
それは、こんな風に、温かくて、少し騒がしくて、そして何気ない幸せに満ちたものだったのかもしれない。
「みんな、本当に幸せそうで良かった」
美月が、スープをスプーンですくいながら、嬉しそうに言う。
「蒼真くんが、この人たちにも居場所をあげたのね」
「俺は、何もしてない。ただ、俺がここにいたいから、いるだけだ」
ぶっきらぼうに答えながら、蒼真はカレーを口に運ぶ。
じゃがいものほくほくとした食感、人参の優しい甘み、そしてスパイスの香りが口の中に広がる。
美味い。
心の底から、そう思った。
復讐に明け暮れていた頃は、食事など、ただのエネルギー補給でしかなかった。
味がする、ということすら忘れていた。
だが、今は違う。
美月が隣にいる。温かい食事がある。笑い声が聞こえる。
それだけで、世界はこんなにも彩り豊かになるのだ。
ふと、蒼真のスプーンを動かす手が止まった。
何かを感じる。
それは、音でも、匂いでもない。
肌を刺すような、無機質な視線。
遥か遠く、この施設を見下ろす山の稜線から、まるで覗き込まれているかのような、明確な『観測』の気配。
一つや二つではない。複数。
それも、高度に訓練された者たちの、気配を殺した、冷たい視線。
「どうしたの、蒼真くん? 」
美月が、不思議そうに蒼真の顔を覗き込む。
彼女の純粋な瞳には、何の不安も映っていない。
「……いや、なんでもない」
蒼真は、何事もなかったかのように、再びスプーンを動かした。
だが、彼の感覚は、極限まで研ぎ澄まされていた。
魔力で周囲を探る。
いる。
間違いなく、いる。
内心で、蒼真は舌打ちした。
「蒼真くん?」
「……ああ、なんでもない。ちょっと考え事だ」
蒼真は、美月に心配をかけまいと、努めて穏やかな笑みを浮かべた。
「ほら、冷めないうちに食べろよ」
「うん……」
美月はまだ少し不安そうな顔をしていたが、蒼真に促されて、再びカレーを口に運び始めた。
その夜。
蒼真と美月は、施設の屋根の上に座り、満天の星を眺めていた。
山奥だからだろうか、東京では決して見ることのできない、無数の星々が、まるでダイヤモンドの粉を撒き散らしたかのように、夜空いっぱいに輝いている。
天の川が、淡い光の帯となって、空を横切っていた。
虫の声だけが、静寂を優しく彩っている。
「すごいね……星って、こんなにたくさんあったんだ」
美月が、感嘆の息を漏らした。
彼女は、蒼真の肩に寄りかかり、その温もりを感じながら、空を見上げている。
「ああ」
蒼真も、星空を見上げていた。
だが、彼の意識の一部は、今もなお、遠くの山々に向けられていた。
観測の気配は、夜になっても消えていない。
むしろ、その数を増しているようにすら感じられた。
包囲網が、ゆっくりと、しかし着実に狭められている。
「ねえ、蒼真くん」
美月が、夢見るような声で言った。
「私、今、すごく幸せ」
「……そうか」
「うん。蒼真くんがいてくれて、みんながいてくれて……毎日、朝起きるのが楽しみなんだ。明日も、こんな日が来るんだって思えるから」
彼女は、蒼-真の顔を見上げ、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔は、夜空のどの星よりも、眩しく輝いて見えた。
「ずっと、こんな平穏が続けばいいのにね」
その言葉は、何の裏もない、彼女の心からの願いだった。
純粋で、切実で、そしてあまりにも儚い祈り。
蒼真は、何も言えなかった。
ただ、彼女の言葉が、まるで不吉な予言のように、自分の胸に深く突き刺さるのを感じていた。
彼は、美月を抱きしめる腕に、そっと力を込める。
この温もりを、この笑顔を、この平穏を、絶対に失うものか。
星空の下で、二人は静かに寄り添い続ける。
嵐の前の、最後の静けさ。
その終わりが、刻一刻と近づいていることにも気づかずに。
いや、蒼真だけは、その足音を、確かに聞いていた。




