第69章
藤原総理による、歴史上初となる一個人に向けた「防衛出動」命令が下された同日、午後。
東京、市ヶ谷。
日本の国防の中枢、防衛省庁舎の地下深くに設けられた中央指揮所は、首相官邸の危機管理センターとはまた異なる、より武骨で、より実戦的な空気に満ちていた。
壁一面に広がる巨大な統合戦術情報ディスプレイには、日本全土の空と海、そして陸の状況がリアルタイムで表示されている。
磨き上げられた床に、規則正しく並べられたコンソール。
そこかしこに張り巡らされたケーブルの束と、低く響くサーバーの駆動音が、この場所が国家防衛の神経系そのものであることを示していた。
消毒液の匂いが微かに漂う、無機質な空間。
そこに、日本の軍事を司る最高幹部たちが集結していた。
彼らの身に纏うのは、政治家たちのスーツとは一線を画す、威厳に満ちた濃緑色の制服。
肩に輝く階級章と、胸に並ぶ色とりどりの防衛記念章が、彼らがこれまで歩んできた道のりと、その双肩に担う責任の重さを物語っている。
円卓の上座に座るのは、陸海空三自衛隊を束ねる最高位の武官、統合幕僚長・森田義明。
短く刈り揃えられた髪は、すでにその大半が雪のような白に染まっている。
しかし、長年の軍務によって刻まれた顔の深い皺と、鷲のように鋭い眼光は、少しの衰えも見せない。
彼はただ黙って腕を組み、その存在だけで室内の空気を引き締めていた。
その隣には、陸上自衛隊のトップ、陸上幕僚長・北条厳。
森田とは対照的に、まだ黒々とした髪と、まるで岩を削り出したかのような厳つい顔立ちを持つ、典型的な猛将タイプの軍人だ。
分厚い胸板と太い首は、彼が今でも鍛錬を欠かさぬことをうかがわせる。
その瞳には、自衛隊という組織への絶対的な誇りと、いかなる敵をも粉砕するという揺るぎない自信が宿っていた。
「――始めます」
静かに口火を切ったのは、情報分析官の山田一尉だった。
この場にいる幹部たちの中では突出して若い。
防衛省情報本部から派遣された分析のプロフェッショナルで、痩せ型で色素の薄い髪、度の強い眼鏡をかけた姿は、軍人というよりは研究者に近い。
彼は手元の端末を操作し、中央のスクリーンに一枚の衛星写真を映し出した。
「こちらが、本日午前九時時点での、対象『橘蒼真』の潜伏拠点と推定される場所です」
スクリーンに表示されたのは、山梨県の山間部に位置する、広大な土地の俯瞰映像だった。
かつてカルト教団「真理の光明会」が本拠地としていた場所だ。
「現在、対象はこの施設の残存する建物の一つを拠点とし、生活しているものと見られます。また、特筆すべき点として、周囲には元信者たちが、対象を慕う形で共同生活を営んでいる模様です」
山田一尉は、淡々と事実を述べる。
スクリーンには、熱源感知によって示された人間の反応が、赤い点でマッピングされていく。
中心に一つ、ひときわ強い反応があり、その周りを小さな点が取り囲んでいる。
「元信者たちは非武装であり、我々に対して敵対行動を取る可能性は低いと分析。しかし、対象を防衛するための『人間の盾』となる可能性は否定できません」
「ふん、信者ごっこか」
北条陸幕長が、鼻を鳴らした。その声には、侮蔑の色が隠せない。
「それで、肝心の対象の能力分析はどうなっている。通常兵器は通用するのか、しないのか。はっきりさせろ」
「……それが、現時点では断定が困難です」
山田一尉は、眼鏡の位置を指で押し上げながら、悔しそうに答えた。
「過去の戦闘データを解析しましたが、結果は『現象再現不可』。警察の機動隊が使用した拳銃弾、SATの小銃弾、いずれも対象に到達する前に運動エネルギーを喪失。爆発物の効果も、対象を中心とした一定空間内では無効化されています。我々はこれを、便宜上『障壁』と呼称していますが、その防御原理は現代科学では説明不可能です」
「科学で説明できん、か」
北条は、太い指でテーブルをトントンと叩いた。
不機嫌さを隠そうともしない。
「つまり、お前たちは『分からない』と言っているだけだな。だがな、山田一尉。我々は分からないから何もしない、というわけにはいかんのだ」
その言葉には、データや理論よりも、現場での経験と実績を重んじる、叩き上げの軍人らしい矜持が滲んでいた。
「原理などどうでもいい。要は、その『障壁』とやらが、どれだけのエネルギーに耐えられるかだ。拳銃弾がダメなら、砲弾を撃ち込めばいい。小銃がダメなら、戦車で踏み潰せばいい。どんな不思議な現象も、圧倒的な物量の前では必ず限界が来るはずだ」
北条の言葉は、この場にいる多くの幹部たちの考えを代弁していた。
我々には戦車があり、戦闘機があり、ミサイルがある。
国家の総力を結集した、科学技術の結晶だ。
たった一人の子供が持つ、得体の知れない力に、この国の軍事力が劣るなど、断じてあってはならない。
その時、これまで黙って話を聞いていた一人の男が、すっと立ち上がった。
今回の作戦で、現場の最高指揮を執ることになる、第一師団長・田代猛。
歴戦の勇士という言葉がしっくりくる、威厳に満ちた体躯。
日に焼けた顔に刻まれた深い皺は、彼がこれまで潜り抜けてきたであろう数々の厳しい訓練と任務の証だ。
その瞳は、部下を思う優しさと、任務を完遂するという鉄の意志を同時に宿している。
「陸幕長のお言葉、ごもっともです。物量で圧倒する。それこそが、今回の作戦の要諦となります」
田代は、手にした指示棒で、スクリーンに表示された地図を指し示した。
彼の背後には、同じく制服に身を包んだ、彼の腹心である作戦参謀長・岡本一佐が控えている。
幹部候補生学校を首席で卒業したエリートで、その細身で知的な容貌とは裏腹に、大胆かつ緻密な作戦を立案することで知られている。
「つきましては、我が第一師団による、以下の作戦を提案いたします」
田代の声が、室内に響き渡る。
「我が師団が保有する全戦力を投入。対象が潜伏する施設を中心に、半径十キロメートルの完全包囲網を構築します」
スクリーン上の地図に、赤い円が描かれ、無数の部隊配置を示すアイコンが、施設を蟻のように取り囲んでいく。
「東部方面隊より、第1戦車連隊、第2特科連隊を臨時編入。90式戦車四十両、155mm榴弾砲三十門、多連装ロケットシステムMLRS十二両を以て、地上からの圧力を最大化。さらに、航空自衛隊より、F-15戦闘機二十四機からなる臨時飛行隊の支援を受け、上空からの攻撃も同時に行います」
戦車四十両。
戦闘機二十四機。
その圧倒的な数字が、幹部たちの間に、ある種の全能感にも似た高揚感をもたらす。
これだけの戦力を、たった一人を制圧するために投入する。
日本の歴史上、前例のない規模の軍事作戦。
「具体的な戦術については、岡本参謀長より説明させます」
田代が一歩下がると、入れ替わるように岡本一佐が前に出た。
彼は、淀みない口調で、作戦の三段階を説明し始める。
「本作戦は、三つのフェーズに分けて実行します。フェーズ1、『鉄の雨』」
岡本は、指示棒で砲兵部隊のアイコンを指した。
「まず、特科連隊による遠距離からの制圧射撃。榴弾砲及びMLRSによる飽和攻撃を以て、潜伏施設そのものを物理的に破壊。対象の行動範囲を制限し、心理的圧迫を与えます」
「フェーズ2、『空の支配』」
次に、指示棒は航空部隊のアイコンを指す。
「フェーズ1と同時に、F-15戦闘機による上空からの精密爆撃を開始。バンカーバスター等の地中貫通爆弾を使用し、地下施設への退避経路を完全に遮断。制空権を確保し、対象の逃亡を不可能にします」
そして、岡本の声に、わずかに力がこもった。
「そして、最終フェーズ3、『鋼の鉄槌』」
指示棒が、施設を取り囲む戦車部隊と普通科部隊のアイコンをなぞる。
「砲撃と空爆により、対象が疲弊、あるいは障壁が減衰した瞬間を捉え、木村連隊長の率いる戦車部隊が突入。同時に、中村連隊長の率いる普通科部隊が、四方から包囲網を圧縮。対象を完全に無力化し、身柄を確保します」
完璧な作戦だった。
陸と空からの、波状攻撃。
科学と戦術の粋を集めた、現代軍事の教科書のような包囲殲滅作戦。
魔法などという、非科学的な現象が入り込む余地は、どこにもないように思えた。
説明を終えた岡本が下がると、田代が再び前に出た。
「以上が、我々の提案する作戦の全容です。ご承認を」
全ての視線が、再び上座の二人に注がれる。
北条陸幕長は、満足げに深く頷いた。
「見事だ、田代師団長。これならば、いかに奴が化け物じみた力を持っていようと、逃げ場はあるまい」
そして、最後に、これまで沈黙を守っていた統合幕僚長・森田が、重々しく口を開いた。
その声は、静かでありながら、部屋の隅々にまで響き渡るような、絶対的な威厳を持っていた。
「諸君、心して聞け」
全員が、背筋を伸ばす。
「今回の作戦は、単なる一テロリストの制圧ではない。これは、我が国の、そして自衛隊の威信をかけた戦いだ。警察が敗れ、社会が混乱し、国民が恐怖に慄いている今、この国を守れるのは、我々しかいない。我々の力が、この国の最後の砦なのだ」
森田は、幹部たち一人一人の顔を、ゆっくりと見回した。
「失敗は、断じて許されない。いかなる犠牲を払ってでも、任務を完遂せよ。我が国の軍事力が、一個人の理不尽な暴力に屈するなどという前例を、決して作ってはならん。分かったか」
「「「はっ!!」」」
鋼のような声が、一つになって響き渡る。
それは、日本の軍事組織が、その持てる力の全てを以て、一人の少年を排除するという、固い決意の表明だった。
「よろしい。作戦を承認する。直ちに準備にかかれ」
森田の最終承認を以て、会議は終了した。
幹部たちが敬礼し、次々と退室していく中、田代師団長は一人、スクリーンに映し出された、赤い点で示された「敵」を、じっと見つめていた。
彼の軍人としての経験と理性が、作戦の成功を確信していた。
だが、心の奥底で、科学では解明できない、得体の知れない「何か」に対する、ごく微かな、しかし消えない不安の澱が、冷たく渦巻いているのを、彼自身、気づかないふりをしていたのだった。




