第68章
千代田区永田町。
首相官邸の地下深くに存在する、危機管理センターは、日本の心臓部でありながら、決して陽の光が届くことのない場所だった。
壁一面を埋め尽くす巨大なマルチスクリーンには、日本各地の監視カメラ映像、通信傍受データ、そしてSNSのトレンドといった、およそ国家の神経系を構成するありとあらゆる情報が無機質な光を放ちながら明滅している。
冷たい空調が吐き出す、わずかな作動音。
時折響く、誰かが淹れたのであろう、とうに冷え切ったコーヒーの香り。
平時であれば、この部屋は静寂に包まれているはずだった。
だが今、この国の最高指導者たちが集う円卓は、まるで嵐の前の静けさという陳腐な表現すら生ぬるく感じるほどの、張り詰めた緊張に支配されていた。
「――では、緊急閣議を始めます」
重々しい声を発したのは、この国の最高責任者、内閣総理大臣・藤原康弘その人だった。
テレビの画面越しに見せる温厚な笑みはそこにはなく、目尻に刻まれた深い皺は、この数日間の心労を雄弁に物語っていた。
仕立ての良いダークスーツに身を包んでいるが、その肩には国家そのものの重みがのしかかっているかのように、わずかに沈んで見える。
彼は、円卓に座る閣僚たちを一人一人、厳しい視線で見回した。
その眼差しは、覚悟を問うているかのようだった。
「議題は、『橘蒼真』案件についてです」
藤原の口からその名が発せられた瞬間、室内の空気がさらに数度、冷たくなる。
橘蒼真。
当初は、たった一人の未成年による、常軌を逸した連続凶悪事件。
そう処理されるはずだった。
だが、事態はとどまることを知らなかった。
大手メディアは、その本社ビルを物理的に沈黙させられた。
警察組織は、その捜査本部ごと壊滅させられた。
「まず、状況の再確認を。間宮防衛大臣、お願いします」
藤原に促され、席に座る一人の男が静かに立ち上がった。
防衛大臣・間宮隆二。
元自衛官の経歴を持つ、防衛族の重鎮だ。
現役時代に鍛え上げたであろう、引き締まった体躯はスーツの上からでも明らかで、短く刈り揃えられた髪には白いものが混じる。
彫りの深い顔立ちと、猛禽類を思わせる鋭い眼光は、彼が政治家である以前に、生粋の軍人であることを示していた。
彼の手には、黒い表紙で製本された分厚い報告書が握られている。
「はい」と短く応じた間宮は、手元のボタンを操作した。
中央の巨大スクリーンに、報告書の表紙が映し出される。
『特定未成年S級案件に関する被害状況報告書』
ページがめくられるたびに、そこに座る閣僚たちの顔から血の気が引いていくのが、手に取るように分かった。
「……まず、警察の被害について。捜査本部の置かれていた警視庁本庁舎が半壊。現場で抵抗した警官、三百名以上が戦闘不能。そのほとんどが再起不能、あるいは重度のPTSDを発症しています」
淡々とした、感情を排した声が続く。
「次に、報道機関。大手新聞社と出版社、テレビ局の本社ビルが物理的に破壊されました、その経済的損失は計り知れません」
スクリーンには、無残に崩れ落ちたビルの写真が次々と映し出される。
誰もが言葉を失い、喉を鳴らす音だけがやけに大きく響いた。
間宮は一度言葉を切り、報告書から顔を上げた。
その鋭い視線が、閣僚一人一人を射貫く。
「結論から申し上げます。対象、橘蒼真は、もはや我々の理解が及ぶ『犯罪者』ではありません。彼は、一個人の姿をした『歩く災害』であり、あるいは、一つの『軍隊』に匹敵する、あるいはそれを凌駕する戦闘能力を保有する、未知の脅威です」
シン、と室内は完全な静寂に包まれた。
空調の音すら、聞こえない。
それは、理解の範疇を超えた事実に直面した人間の、思考停止の沈黙だった。
これまで彼らが相手にしてきたのは、テロリスト、自然災害、経済危機……いずれも、過去のデータと経験則で対応できる、既知の脅威だった。
だが、橘蒼真は違う。
人知を超えた怪物。
科学と法治を前提とする近代国家が、最も苦手とする、理不尽の化身。
その沈黙を破ったのは、藤原の右隣に座る、もう一人の男だった。
官房長官・石川浩司。
常にポマードで固められた黒髪と、フレームレスの眼鏡が、彼の怜悧な印象を際立たせている。
政府の「顔」として、日々、記者たちの質問を巧みにかわす彼は、政治的バランス感覚に優れた調整役だ。
「総理」
石川は、藤原に視線を向けたまま、静かに、しかし強い口調で言った。
「国民は、もはや我慢の限界です。ネット上には、『政府は何をしているんだ』『税金泥棒』『一人の子供も捕まえられないのか』という批判と、そして何より『恐怖』が、爆発的に広がっています。このままでは、政府への信頼は完全に失墜し、社会秩序そのものが崩壊しかねません」
彼の言葉は、冷たい事実を突きつける。
そう、国民は何も知らない。
相手が人知を超えた存在だなどとは、夢にも思っていない。
彼らにとって、橘蒼真は「凶悪なテロリスト」であり、それを速やかに排除できない政府は「無能」でしかないのだ。
「警察は、もはや無力です。いえ、これ以上の投入は、優秀な警察官たちの命を無駄に散らすだけの、自殺行為に等しい」
間宮が、低い声で付け加える。
「我々に残された選択肢は、一つしかありません」
全ての視線が、藤原に集まる。
藤原は、固く目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、自衛隊法。
その厳格な使用要件。
治安出動、防衛出動……いずれも、この一個人を相手にするという想定はされていない。
だが、国家の存亡がかかっている。
国民の安全が、今この瞬間も脅かされている。
前例がない?
歴史を作るのは、いつだって、今を生きる人間の決断だ。
責任?
それこそが、内閣総理大臣という職務の本質ではないか。
藤原は、ゆっくりと目を開けた。
その瞳には、先ほどまでの迷いは消え、鋼のような強い意志の光が宿っていた。
「……私が、責任を取る」
凛、とした声が、危機管理センターに響いた。
「閣議の総意を以て、決定します。自衛隊法第七十六条、防衛出動を命令する」
その言葉に、息を呑む者、固唾を呑む者、様々だった。
防衛出動。
それは、日本が外部からの武力攻撃に晒された際に発令される、自衛隊の最高レベルの行動。
それを、自国民である、たった一人の少年に対して適用する。
歴史上、初めての決断。
それは、国家が、橘蒼真を「敵国」あるいはそれに準ずる「脅威」と正式に認定したことを意味した。
藤原は、間宮防衛大臣に向き直る。
「間宮大臣。君に、全権を委任する。いかなる手段を用いても構わない。国民の安全を確保し、対象を速やかに無力化してほしい」
「はっ」
間宮は、直立不動の姿勢で応じた。
その顔には、悲壮な覚悟と、軍人としての使命感が浮かんでいる。
「して、作戦規模は、どの程度をお考えでしょうか」
その問いに、藤原は一瞬、逡巡した。
だが、彼の決意は揺るがない。
中途半端な戦力投入は、さらなる被害と、国家の威信の失墜を招くだけだ。
やるならば、全力で。
この国が持ちうる、最大の物理的実力をもって、理不尽を叩き潰す。
「一個師団の投入を許可します」
間宮の目が、わずかに見開かれた。
一個師団。
それは、戦車、火砲、航空支援部隊までをも含んだ、一個方面隊の中核をなす、巨大な戦闘単位。
たった一人を相手にするために、一つの「軍隊」を動かす。
前代未聞。
狂気の沙汰と言ってもいい。
だが、それこそが、藤原康弘という男の、そして日本という国家の、覚悟の表れだった。
「よろしいですね、皆さん」
藤原は、円卓を見回し、最後の確認を取る。
反対する者は、誰もいなかった。
もはや、それ以外の道は残されていなかったのだ。
◇
一時間後。
首相官邸、記者会見場。
無数のカメラのフラッシュが、眩い光の洪水となって、演台に立つ藤原総理に降り注いでいた。
地下の危機管理センターとは対照的な、華やかで、しかし殺伐とした空間。
藤原は、数分前までの苦悩の表情を完全に消し去り、国家のリーダーとしての威厳に満ちた顔で、マイクの前に立っていた。
「国民の皆様。そして、報道関係者の皆様。本日は、政府として、極めて重要なお知らせがあり、こうして会見を開かせていただきました」
深々と、一礼する。
会場が、水を打ったように静まり返る。
「ご存知の通り、現在、橘蒼真と呼称される一名の人物により、我が国の治安は深刻な脅威に晒されております。政府はこれまで、警察組織を中心に、事態の収拾に全力を挙げてまいりました。しかしながら、誠に遺憾ながら、その脅威は我々の想定を遥かに超えるものであり、これ以上の被害拡大を防ぐため、政府は本日、重大な決断を下しました」
藤原は、一度言葉を切り、カメラのレンズの奥にいる、全ての国民に語りかけるように、続けた。
「政府は、先ほどの閣議において、自衛隊法第七十六条に基づき、自衛隊の防衛出動を命令いたしました」
ざわっ、と会場が大きくどよめいた。
記者たちの手が、凄まじい速度でキーボードを叩く。
歴史が動く音だった。
「自衛隊は、国家の総力を結集し、国民の皆様の生命と財産、そしてこの国の平和と秩序を脅かす、橘蒼真という脅威に対し、断固たる措置を講じます。すなわち、彼を制圧するための軍事作戦を実行いたします」
それは、事実上の「宣戦布告」だった。
国家が、たった一人の少年に。
「国民の皆様には、多大なるご心配とご不便をおかけすることを、深くお詫び申し上げます。しかし、これは、我が国の未来を守るために、避けては通れない道です。政府と自衛隊は、一丸となって、この国難に立ち向かう所存です。どうか、ご理解とご協力を、心よりお願い申し上げます」
再び、深々と頭を下げる藤原。
その言葉を合図に、堰を切ったようにフラッシュが焚かれ、怒号のようなシャッター音が会場を支配した。
無数の光の中で、藤原はただ一人、固く唇を結び、その双肩にのしかかる国家の威信と、これから始まるであろう壮絶な戦いの重みを、一身に受け止めていた。
この瞬間、日本という国家は、自らが作り出した法と秩序の枠組みを自ら破壊し、人知を超えた「個」の暴力に対し、国家という「システム」の暴力で対抗する道を選んだった。




