第67章
蒼真がその神の如き、あるいは悪魔の如き力で、教団の幹部全員を、この世から文字通り消滅させた後。
白亜の大聖堂には、死そのものよりも深い、絶対的な静寂が訪れていた。
天井のシャンデリアは砕け散り、壁のステンドグラスは無残な穴を晒している。
祭壇があった場所には、幹部たちが存在していた痕跡すら残っていない。
ただ、黒い魔力が焦がした床の染みだけが、先程まで此処で行われていた一方的な虐殺の事実を、静かに物語っていた。
その静寂の中心に、蒼真は立っていた。
腕の中には、衰弱しながらも、確かに温かい美月の身体を抱きしめている。
そして、彼の足元には――純白の装束を纏った信者たちが、まるで巨大な白い絨毯のように、床にひれ伏していた。
彼らの心を満たしていた狂信は、それを遥かに凌駕する、根源的な恐怖によって、完全に粉砕されていた。
もはや、誰も声を発しない。
身じろぎ一つしない。
ただ、呼吸をすることすら忘れたかのように、額を床に擦り付け、絶対者からの次なる審判を、待っているだけだった。
蒼真は、ひれ伏す信者たちを、冷たい瞳で見下ろした。
彼らもまた、美月を「生贄」として殺すことに、同意していた者たちだ。
本来ならば、幹部たちと同じように、塵芥と化していてもおかしくはない。
だが、彼の心に、もはや怒りの炎は残っていなかった。
残っているのは、全てを破壊し尽くした後の、どこまでも広がる虚無感と、そして、腕の中にいる、このかけがえのない少女を守り抜くという、ただ一つの、絶対的な目的だけだった。
彼は、静かに口を開いた。
その声は、魔力によって増幅され、大聖堂の隅々にまで、神託のように響き渡る。
「――顔を上げろ」
その命令に、信者たちの身体が、びくりと震えた。
おそるおそる、何人かが顔を上げる。
蒼真は、その無数の瞳を、一人一人見据えるように、ゆっくりと言葉を続けた。
その声には、一切の感情が乗っていなかった。
「お前たちの信じていた神は、死んだ。お前たちの望んだ新世界は、来ない」
絶望的な宣告。
信者たちの顔が、さらに青ざめていく。
「お前たちに、選択肢を与えてやる」
蒼真は、一拍置いた。
その沈黙が、信者たちの心臓を、締め上げる。
「一つは、ここで、死ぬか。そして、もう一つは――」
彼は、その冷徹な瞳で、ひれ伏す全ての者を見据え、最後の言葉を告げた。
「――俺に、従うかだ」
それは、問いかけではなかった。
絶対的な支配者による、最後通牒だった。
答えは、一瞬で決まった。
一人の老人が、震える声で、叫んだ。
「し、従います! 我らは、あなた様に! 真の神に、従わせていただきます!」
その声が、引き金となった。
堰を切ったように、数千の信者たちが、一斉に叫び始めた。
「「「神様の仰せのままに!」」」
「「「我らの命も、魂も、全てをあなた様に捧げます!」」」
彼らの瞳から、聖堂院への狂信は消え去り、代わりに、蒼真という新たな「神」への、絶対的な恐怖と、そして、生き残れることへの卑小な安堵が入り混じった、新たな信仰の光が灯っていた。
◇
その日の夕刻。
大聖堂の喧騒が嘘のように、静まり返った一室で、美月は、ようやく目を覚ました。
「……ん……」
ゆっくりと瞼を開けると、最初に視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井ではなかった。
だが、次に感じた、自分の手を優しく握る、温かい感触に、彼女の心は、瞬時に安らぎに満たされた。
「……蒼真、くん……?」
「……目が覚めたか、美月」
ベッドの傍らの椅子に座り、心配そうに自分を覗き込んでいたのは、紛れもなく、彼女が待ち望んでいた、愛しい人の姿だった。
「蒼真くんっ!」
美月は、勢いよく身体を起こすと、彼の首に、力いっぱい抱きついた。
「よかった……! 夢じゃ、なかったんだ……!」
「ああ、夢じゃない。俺は、ここにいる」
蒼真は、彼女の背中を、優しく、何度も撫でた。
その腕の温もり、匂い、確かな感触。
それら全てが、彼女が悪夢から完全に解放されたことを、告げていた。
「……信じてた」
美月は、彼の胸に顔を埋めたまま、嗚咽交じりに言った。
「怖くて、何度も心が折れそうになったけど……でも、蒼真くんが、絶対に助けに来てくれるって、ずっと、ずっと信じてた……!」
「……遅くなって、ごめんな」
蒼真の声が、微かに震えていた。
「もう、大丈夫だ」
二人は、言葉もなく、ただ互いの存在を確かめるように、固く抱きしめ合った。
失われた時間を取り戻すかのように。
そして、二度と離さないと、心に誓うかのように。
しばらくして、落ち着きを取り戻した美月が、ふと、部屋の様子に気づいた。
「……ここは?」
「元は、教祖の部屋だったらしい。この施設で一番安全な部屋だ」
蒼真は、そう言うと、窓の外に視線を向けた。
美月も、彼に倣って窓の外を見る。
そこには、夕日に照らされた、広大な敷地が広がっていた。
近代的な宿舎棟。巨大な食堂。医療設備が整った診療所。
さらには、地下には、数年分はあろうかという食料や物資が備蓄された、巨大な倉庫まであった。
そして、その全てを、純白の装束を纏った、かつての信者たちが、今は蒼真の命令一下、黙々と維持管理している。
「……すごい、ね。一つの街みたい……」
美月が、感嘆の声を漏らす。
蒼真は、その光景を、満足げに見下ろしながら言った。
「ああ。ここなら、もう誰も、俺たちを脅かすことはできない」
ここは、彼と美月のためだけに存在する、絶対的な安全地帯。
「ここなら、何も心配せずに、安心して暮らせる」
蒼真は、美月の方を向き直り、その頬を優しく撫でた。
「俺が、そうする」
その瞳には、復讐者としての冷たい光ではなく、愛する者を守り抜いた、守護者としての、穏やかで、そして力強い光が宿っていた。
美月は、こくりと頷くと、彼の胸に、再び顔をうずめた。
「……うん。蒼真くんがいるなら、どこだって、私の居場所だよ」
夕日が二人を、オレンジ色の優しい光で包み込んでいく。
長い、長い戦いの末に、ようやく手に入れた、束の間の平穏。
もう誰も、この平穏を壊させはしない。
この少女の笑顔を、曇らせるものは、たとえ神であろうと、悪魔であろうと、この俺が、全て排除する。
蒼真は、強くそう誓うのだった。




