第66章
蒼真は、一歩、また一歩と、静かに大聖堂の中へと足を踏み入れる。
その瞳は、祭壇の上で、涙を流しながらも、安堵の表情を浮かべる美月だけを、まっすぐに見つめていた。
その神々しくも、恐ろしいまでの登場に、数千の信者たちが息を呑む。
そして、祭壇の上で、その光景を最も待ち望んでいた男――教祖、聖堂院慈海が、掲げた短剣を震わせながら、歓喜に満ちた声を張り上げた。
「おお……! おお、おおおおおおっ! ついに、ついに、神が、我らの前に降臨されたぞ!」
聖堂院は、狂喜に顔を歪ませ、蒼真に向かって両腕を広げた。
その姿は、自らの計画が完璧に成就したと信じて疑わない、愚かな創造主そのものだった。
「ご覧ください、我が神よ! あなた様のために用意した、最高の舞台です! さあ、その大いなる怒りをもって、この聖なる花嫁に、そしてこの腐敗した世界に、最後の審判を!」
その言葉を聞いた瞬間。
蒼真の全身から、黒い魔力が、まるで物理的な圧力となって、爆発的に解放された。
ゴオオオオオオオッ!
大聖堂全体が、地鳴りのように激しく震動する。
天井の巨大なシャンデリアが大きく揺れ、壁のステンドグラスが、蜘蛛の巣のような亀裂を走らせ、甲高い音を立てて砕け散った。
「……お前たちが」
その声は、この場にいる全ての者の、魂の芯にまで、直接響き渡った。
「俺の美月を、苦しめた」
その声には、一切の感情が乗っていなかった。
だからこそ、恐ろしかった。
それは、人間が発する声ではない。
天災が、その始まりを告げる、静かな予兆。
聖堂院の背後で、その異常な雰囲気をいち早く察知した男が、一歩前に出た。
参謀役の天野正道。その痩せ型の顔には、計算高い笑みが浮かんでいる。
「お待ちしておりました、我が神よ。我々は、あなたの真の力を解放するために、この儀式を執り行ったのです。さあ、その『愛』という名の枷を外し、我々と共に、新世界を――」
「――ふざけるな」
蒼真の言葉が、天野の演説を、冷たく遮った。
蒼真は、天野を一瞥だにした。ただ、それだけで。
バチイイイイイイイイイイイイイッ!!
天から、黒い雷の槍が落ちた。
それは、一切の予備動作なく、天野正道の身体を、頭の先からつま先まで、正確に貫いた。
「が……は……?」
天野は、何が起こったのかも理解できないまま、その身体を内側から焼き尽くされ、一瞬にして黒い炭の塊と化し、そして、塵となって崩れ落ちた。
後には、彼の履いていた高級な革靴だけが、焦げ付いた床の上に、寂しく残されていた。
「あ……あまの、殿……?」
聖堂院が、信じられないものを見る目で、呆然と呟く。
その隣で、巫女長の白鳥麗香が、狂信的な瞳を蒼真に向け、叫んだ。
「そうです、神様! それで良いのです! その男は、信仰心なき不埒者! さあ、神よ、そのくだらない『愛』などという感情を捨て、真の御力を、我らに!」
「……黙れ」
蒼真の視線が、白鳥へと移る。
その瞳には、侮蔑と、そして底なしの怒りが渦巻いていた。
蒼真が右手をかざすと、白鳥の足元から、紅蓮の炎が、まるで地獄の業火のように燃え上がった。
「ぎゃあああああああああああっ!?」
純白の巫女装束が、一瞬にして燃え上がり、彼女の美しい身体を、炎が舐め尽くしていく。
「あ、愛を……神への、愛を……!?」
白鳥は、燃え盛る炎の中で、最後まで理解できないといった表情を浮かべながら、絶叫と共に、白い灰へと変わっていった。
そのあまりにも惨たらしい光景に、残された幹部たちの顔から、血の気が引いていく。
「ひ、ひぃぃっ! ば、化け物……!」
武闘派幹部の黒崎鉄男が、恐怖に駆られて、祭壇の陰から飛び出し、信者たちの中へと逃げ込もうとする。
だが、蒼真はそれを見逃さない。
彼が指を鳴らすと、黒崎の周囲の空間そのものが、まるで巨大な万力に締め上げられるように、歪んだ。
「ぐ……ぎぎぎ……! お、俺の身体が……!」
ミシミシ、と骨が軋む音。
筋骨隆々の巨体が、ありえない方向に捻じ曲げられ、最後には、肉と骨が混じり合った、醜い肉塊となって、床に叩きつけられた。
「「「ぎゃあああああああああああああああああっ!!」」」
その光景を目の当たりにした信者たちが、一斉にパニックに陥る。
我先にと、破壊された扉へと殺到するが、そこには、不可視の魔力の壁が形成されており、誰も外へ出ることはできない。
「金ならいくらでも! 命だけは!」
「私が、新世界の広報を!」
財務担当の村田と、広報担当の佐伯が、見苦しく命乞いを始める。
だが、蒼真の心には、もはや慈悲など一欠片も残っていなかった。
無数の氷の刃が、どこからともなく現れ、二人の身体を、原型を留めないほどに切り刻んだ。
最後に残ったのは、祭壇の上で、腰を抜かして震える、儀式担当の神宮寺と、そして、教祖である聖堂院だけだった。
蒼真は、ゆっくりと祭壇へと歩みを進める。
その一歩一歩が、彼らの死へのカウントダウンだった。
彼は、まず、美月を縛り付けていた金の鎖を、指先一つで、塵に変えた。
そして、衰弱した彼女の身体を、壊れ物を抱き上げるように、優しく、その腕の中に抱きとめた。
「……蒼真、くん……」
美月が、涙ながらに、彼の名を呼ぶ。
「もう大丈夫だ」
美月は蒼真に会えた安堵感と緊張の糸が切れた反動で、蒼真の腕の中で眠りについた。
その一連の光景を、聖堂院は、ただ、呆然と見つめていた。
蒼真は、美月を抱きしめたまま、冷たく言い放つ。
「俺は、神なんかじゃない。お前たちが崇めるような、都合のいい存在じゃない。俺はただ、この子を……俺の大切な、たった一人の女の子を、傷つけたお前たちを、絶対に許さない。……ただ、それだけの、一人の男だ」
聖堂院の顔が、絶望に染まる。
「俺の、美月を、弄んだ罪。その身で、償え」
蒼真が、聖堂院に向かって、静かに手を差し伸べる。
その掌から放たれたのは、炎でも、雷でも、氷でもない。
全てを無に還す、純粋な、闇の魔力だった。
「あ……あ……ああ……」
聖堂院の身体が、足元から、ゆっくりと、砂のように崩れ始めていく。
彼は、自らの身体が消滅していく様を、恐怖に歪む目で見つめながら、最後の言葉を、声にならない声で紡いだ。
「……まちがって……いた、とでも……いう、のか……」
それが、神を騙った、愚かな男の最期だった。
しん、と。
大聖堂に、完全な静寂が訪れた。
幹部たちがいた場所には、焦げ跡と、氷の欠片と、そして、何も残っていない空間だけが広がっている。
その絶対的な力の顕現を目の当たりにした信者たちは、もはや、叫ぶことも、逃げることも忘れていた。
彼らの心を満たしていた狂信は、それを遥かに上回る、根源的な恐怖によって、完全に塗り潰されていた。
やがて、一人が、その場に崩れ落ちるように、土下座をした。
「お……お許しを……! 神様、どうか、お許しください……!」
それを皮切りに信者たちが、まるで波が引くように、次々と床にひれ伏していく。
「「「神様、お許しを!」」」
「「「我らの罪を、どうか!」」」
許しを乞う、懇願の声。
それは、もはや、彼らが作り上げた虚像の神への祈りではない。
目の前に立つ、本物の「死」と「破壊」を司る、絶対者への、完全な服従の誓いだった。
蒼真は、ひれ伏す信者たちを一瞥すると、興味を失ったように、視線を腕の中の美月に戻した。
「……終わったよ、美月」
彼の声は、どこまでも優しかった。
この瞬間、狂信の要塞は、完全に陥落した。




