第65章
処刑の、当日。
正午の太陽が、天の最も高い場所から、地上に容赦のない光を降り注いでいた。
だが、その光ですら、この場所に満ちる狂信の闇を祓うことはできない。
「真理の光明会」が聖地と崇める、白亜の大聖堂。
その内部は、数千という信者たちの、異様な熱気で満たされていた。
老若男女、身分も様々な人々が、一様に純白の装束を纏い、床に跪いて、一心不乱に祈りを捧げている。
その光景は、荘厳でありながら、どこまでも不気味だった。
高い天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアが、きらびやかな光を放ち、壁一面に施されたステンドグラスは、神々の戦いを色鮮やかに描き出している。
空気中には、濃厚な香の匂いが立ち込め、信者たちの口から漏れる、途切れ途切れの祈りの言葉と混じり合い、一種の宗教的なトランス状態を生み出していた。
その全ての視線が、ただ一点に注がれている。
大聖堂の最も奥、数段高くなった場所に設えられた、黒曜石の祭壇。
その中央に、美月は、まるで罪人のように、しかし、聖女のように、縛り付けられていた。
彼女の身体には、昨夜、白鳥麗香が持ってきた、純白の「聖衣」が纏わされている。
何層にも重ねられたレースと、銀糸で施された精緻な刺繍。それは、皮肉にも、彼女の儚い美しさを、極限まで引き立てていた。
手足を縛る金の鎖が、冷たく肌に食い込む。
だが、美月の表情に、諦めの色はなかった。
恐怖に唇は青ざめ、身体は小刻みに震えている。
それでも、彼女の澄んだ瞳は、固く閉ざされた大聖堂の巨大な扉を、ただ、まっすぐに見つめていた。
(……信じてる)
心の中で、彼女は何度も繰り返す。
(蒼真くんは、絶対に、助けに来てくれる)
その信頼だけが、今、彼女の心を支える唯一の光だった。
やがて、祭壇の脇にある扉が、厳かに開かれた。
信者たちの間に、さざ波のようなどよめきが広がる。
現れたのは、教祖、聖堂院慈海。
今日の彼は、いつもの白い法衣ではない。
金糸で太陽と月の紋様が刺繍された、神々しいまでの豪華な祭祀服を身に纏っている。
長く伸ばした白髪と白髭は、まるで後光が差しているかのように、シャンデリアの光を反射して輝いていた。
彼は、ゆっくりとした、計算され尽くした足取りで、祭壇へと歩みを進める。
そして、縛られた美月の隣に立つと、集まった数千の信者たちに向かって、両腕を大きく広げた。
「我が愛する、選ばれし兄弟姉妹たちよ!」
その声は、特殊な音響設備を通しているのか、大聖堂の隅々にまで、神託のように響き渡った。
信者たちが、一斉に顔を上げる。
その瞳は、狂信的な熱に浮かされ、誰もが恍惚とした表情を浮かべていた。
「今日という日は、我らが待ち望んだ、最も神聖なる日である! 我らが神、橘蒼真様が、この腐敗した旧世界に、最終的な神罰を下される、その始まりの日なのだ!」
聖堂院の言葉に、信者たちが、地鳴りのような歓声で応える。
「「「おおおおおおおおっ!」」」
「そして、その神聖なる儀式の始まりとして、我々は、神へ、最高の捧げものを献上する! それこそが、神が唯一お選びになった、聖なる花嫁――この、白石美月様なのだ!」
聖堂院の指が、美月を指し示す。
数千の視線が、一斉に彼女へと突き刺さった。
好奇、憐憫、嫉妬、そして、聖なる犠牲への感謝。
様々な感情が渦巻く視線の奔流に、美月の身体がびくりと震える。
「この乙女の、清らかなる魂と血を、神への生贄とすることで、神の怒りは頂点に達し、その真の御力が解放される! そして、その御力によって、この穢れた世界は浄化され、我ら選ばれし民だけの、新世界が創造されるのだ!」
「神様のために!」「新世界のために!」
「聖なる犠牲に、感謝を!」
信者たちの叫びが、波のように何度も押し寄せる。
それはもはや、個々の人間の声ではない。
一つの巨大な、狂信という名の生き物が発する、おぞましい咆哮だった。
その狂乱の中心で、聖堂院は、満足げに目を細めた。
彼は、傍らに控えていた儀式担当の神宮寺玄妙から、一本の短剣を、恭しく受け取った。
それは、刀身に古代ルーン文字が刻まれた、禍々しいまでに美しい、祭壇用の儀式短剣だった。
黒曜石の柄には、血のように赤い宝石が嵌め込まれている。
聖堂院は、その短剣を、天へと高く掲げた。
シャンデリアの光を反射し、切っ先が、キラリと鋭い光を放つ。
「おお、偉大なる破壊神よ! 我らが主、橘蒼真様よ!」
聖堂院は、天に向かって、朗々と叫んだ。
「今、あなたの忠実なる僕が、ここに、最高の生贄を捧げます! どうか、この聖なる花嫁の血をお受け取りください!」
そして、彼は、その狂信的な瞳を、美月へと向けた。
「そして、その大いなる怒りをもって、この腐敗した世界を、無に還したまえ!」
短剣が、ゆっくりと振り下ろされていく。
その切っ先が、美月の白い喉元へと、狙いを定める。
(……あ……)
美月の時間が、止まった。
スローモーションのように、落ちてくる刃。
狂喜に満ちた、信者たちの顔、顔、顔。
そして、自分の死を確信する、絶対的な絶望。
(……いやだ……死にたく、ない……)
涙が、彼女の瞳から、一筋、こぼれ落ちた。
それでも、彼女は、諦めてはいなかった。
(……蒼真くん……)
最後の力を振り絞り、彼女は、愛しい彼の名を、声にならない声で、呟いた。
その、瞬間だった。
ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンッ!!
大聖堂の、後方。
巨大な鉄製の扉が、まるで内側から爆発したかのように、凄まじい轟音と共に吹き飛んだ。
扉の破片が、悲鳴を上げる信者たちの中に降り注ぐ。
爆風と衝撃波が、大聖堂全体を揺るがし、シャンデリアが大きく揺れ、ステンドグラスに亀裂が走った。
何が起こったのか、誰にも理解できない。
信者たちが、狂乱から一転、恐怖と混乱に陥り、一斉に後方を振り返る。
そこには、もう扉があったはずの場所が、ぽっかりと口を開け、もうもうと立ち込める黒い煙と、粉塵が渦を巻いていた。
しん、と。
あれほど響き渡っていた狂信の叫びが、嘘のように静まり返る。
全ての視線が、破壊された扉の向こう側へと注がれる。
やがて、煙の中から、一つの人影が、ゆっくりと姿を現した。
逆光で、その表情は窺えない。
だが、そのシルエットだけで、そこにいる全員が、それが誰であるかを、瞬時に理解した。
黒いパーカーに、黒いパンツ。
そして、その全身から立ち上る、星々をも凍らせるほどの、絶対的な魔力と、殺意のオーラ。
彼らの崇める「神」。
そして、彼らが、今まさに、その最愛の者を殺そうとしていた、復讐の化身。
橘蒼真が、そこに立っていた。
彼は、一歩、また一歩と、静かに大聖堂の中へと足を踏み入れる。
その瞳は、祭壇の上で、涙を流しながらも、安堵の表情を浮かべる美月だけを、まっすぐに見つめていた。
信者たちが、息を呑む。
聖堂院教祖が、掲げた短剣を震わせたまま、硬直する。
蒼真と、狂信者たちの、最後の戦いの火蓋が、今、静かに切って落とされた。




