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第64章

 処刑を、明日に控えた夜。

 美月は、豪奢な牢獄――「聖女の間」のベッドの上で、独り、膝を抱えていた。


 絹のシーツは肌を滑らかに撫で、部屋に焚かれた白檀の香りは、心を落ち着かせるはずのものだった。

 しかし、今の彼女にとって、それら全てが、自らの死を彩るための、悪趣味な装飾にしか感じられない。


 この二日間、彼女は絶え間ない恐怖と戦い続けてきた。

 昼間は、巫女長の白鳥麗香が、聖母のような笑みを浮かべて「神の花嫁」としての心得を説きに来る。

 夜は、独りきりの静寂の中で、明日訪れるであろう「死」の感触が、冷たい手のように彼女の心を撫でていく。


(……怖い)


 どれだけ気丈に振る舞おうとしても、その本質的な恐怖から逃れることはできない。

 祭壇に縛り付けられる自分。

 刃物を振り上げる狂信者たち。

 

 そして、それを「神の御業」として、恍惚とした表情で見つめる、何千という信者の目。

 想像するだけで、全身の血が凍りつくようだった。


(蒼真くん……)


 彼女は、彼の名前を、お守りのように心の中で繰り返した。

 最後に会った時の、あの冷たい取調室での、絶望に満ちた彼の顔。

 洗脳を解いてくれた時の、あの優しい光。

 そして、自分をこの場所に転移させる直前に見せた、決意に満ちた瞳。


(信じてる。絶対に、助けに来てくれるって)


 その信頼だけが、彼女の心をかろうじて繋ぎとめている、最後の光だった。


 その時、静かに部屋の扉が開かれた。

 入ってきたのは、やはり、あの女神のように美しい、死の天使――白鳥麗香だった。

 その手には、純白に輝く、一枚の豪奢な衣が捧げ持たれている。


「美月様。明日の儀式の準備に参りました」


 白鳥は、いつもと変わらない、穏やかで、しかし感情の温度を感じさせない声で言った。


「……」

 

 美月は、何も答えなかった。

 何を言っても、この女には届かないことを、もう嫌というほど理解していたからだ。


 白鳥は、そんな美月の態度を気にも留めず、手に持っていた衣をベッドの上に広げた。

 それは、何層にもレースが重ねられ、銀糸で精緻な刺繍が施された、ウェディングドレスのように美しい、純白の儀式服だった。


「こちらが、明日、美月様がお召しになる『聖衣』です。素晴らしいでしょう? 神の花嫁に、最もふさわしい一着を、信徒たちが心を込めて織り上げました」


 うっとりと、白鳥は衣を撫でる。


「さあ、最後の沐浴を済ませ、この聖衣に袖を通すのです。最高の状態で、神の元へとお還りいただくために」

「……断ったら?」


 美月は、か細い、しかし、芯の通った声で尋ねた。

 白鳥は、きょとん、と不思議そうに首を傾げた。

 

「お断りになる? なぜです? これは、あなた様に与えられた、至上の栄誉なのですよ」


 その瞳には、悪意はない。

 ただ、純粋な、そして底なしの狂信だけが、そこにあった。

 だからこそ、おぞましい。


 白鳥は、窓辺に歩み寄ると、鉄格子の隙間から見える夜空を見上げた。

 雲一つない、満天の星空。

 月が、まるで明日行われる儀式を祝福するかのように、青白い光を地上に降り注いでいる。


「……ご覧なさい、美月様。なんと美しい夜空でしょう」


 白鳥は、無邪気な子供のように、にっこりと微笑んだ。

 そして、世界で最も残酷な言葉を、彼女に告げた。


「明日は、きっと晴れますわ。あなたの門出を祝う、神聖な儀式に、実にふさわしい、素晴らしいお天気となることでしょう」


 その言葉に、美月の心の中で、かろうじて保っていた何かが、ぷつりと切れた。

 白鳥が部屋を出ていき、再び独りきりになった瞬間、堪えていた涙が、堰を切ったように頬を伝い落ちた。


「う……っく……ひっく……」


 声を殺して、彼女は泣いた。

 怖い。死にたくない。

 もっと、生きていたい。


 蒼真くんと、二人で。

 静かな場所で、ただ穏やかに、笑い合って生きていきたかった。


 そんな、ささやかな願いすら、この世界は許してくれないのか。


 どれくらい、そうしていただろうか。

 涙も枯れ果て、心が虚無に支配されそうになった、その時。


 びり、と。

 部屋の空気が、微かに震えた。


 それは、地震ではない。

 もっと根源的で、巨大な力の、遠い残響。

 美月は、その波動を知っていた。


(これは……蒼真くん?)


 そうだ。警察署で、彼の怒りが爆発した時に感じた、あの圧倒的な力の波動に似ている。

 だが、あの時のような、荒れ狂う嵐ではない。


 今は、巨大な火山のマグマが、地表寸前で、噴火の時を待って、ぐつぐつと煮えたぎっているかのような、途方もないエネルギーの圧。

 それは、彼が近くにいるという、紛れもない証だった。


 彼は、怒りを、憎しみを、そして復讐心を、ただ一点――明日の儀式に向けて、極限まで圧縮し、研ぎ澄ませているのだ。

 全ては、自分を救い出すために。


(……来てくれる)


 美月の瞳に、再び光が宿った。

 涙が、止まった。


 恐怖が、消えたわけではない。

 だが、その恐怖を、上回るほどの、絶対的な信頼が、彼女の心を温かい光で満たしていく。


「……私も、戦わなきゃ」


 彼女は、自分に言い聞かせるように、呟いた。

 彼が、命がけで助けに来てくれるのだ。

 自分が、ここで心を折られてどうする。


 美月は、震える手で、涙を拭った。

 そして、ベッドの上に広げられた、純白の「聖衣」を、まっすぐに見据える。

 それは、もはや彼女にとって、死装束ではなかった。


(これは、蒼真くんとの、再会を祝うドレスだ)


 彼女は、ふっと、力強い笑みを浮かべた。

 美月は、静かにベッドから降り立つと、窓の鉄格子越しに、月の光を浴びた。


「待ってるからね、蒼真くん」


 その声は、もう震えてはいなかった。

 愛する人への、絶対的な信頼に裏打ちされた、凛とした強さが、そこにはあった。


 狂信の檻の中で、一人の少女の魂は、決して屈していなかった。

 絶望の闇の、その向こう側にある光を、彼女はただ、まっすぐに見つめていた。

 

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