第63章
潜入二日目の夕刻。
蒼真は、大聖堂の最上階、その一室の天井裏に、影となって潜んでいた。
気配遮断と光学迷彩を組み合わせた高位の隠形魔法。
それは、彼の存在を完全にこの世から消し去り、眼下で行われる悪魔の密談を、特等席で傍聴することを可能にしていた。
彼の下にあるのは、教団の最高幹部だけが集うことを許された、豪奢な会議室だった。
床には、血のように赤いペルシャ絨毯。
壁には、金糸で教団の紋章が縫い取られた黒いタペストリー。
部屋の中央に置かれた、黒曜石のように磨き上げられた巨大な円卓を、天井のシャンデリアが、まるで血の色のように赤々と照らし出している。
部屋に満ちる、甘く、そしてむせ返るような香の匂いが、この場所に渦巻く欲望と狂気を象徴しているかのようだった。
円卓には、七人の男女が着席していた。
この狂信者たちの要塞を支配する、七つの大罪そのもの。
上座に座るのは、教祖、聖堂院慈海。
長く伸ばした白髪と白髭が、預言者のごとき威厳を放っている。
だが、その瞳は、自らが描く破滅の筋書きに、恍惚と酔いしれていた。
その右隣には、教団のナンバー2にして、冷酷な参謀役、天野正道。
痩せ型で鋭い目つきのこの男は、高級ブランドの黒いスーツに身を包み、指先でテーブルを神経質に叩いている。
元詐欺師である彼の目には、信仰心など微塵もなく、ただ冷たい計算だけが宿っていた。
左隣には、純白の巫女装束を纏った、巫女長の白鳥麗香。
雪のように白い肌と艶やかな黒髪という、女神のような美貌とは裏腹に、その瞳は、蒼真という「神」への異常な崇拝と、その花嫁である美月への、どす黒い嫉妬で濁っている。
その他にも、筋骨隆々の身体に刺青を覗かせる、武闘派幹部の黒崎鉄男。
金に汚い笑みを浮かべる、小太りの財務担当、村田金蔵。
元テレビ局員らしく、弁舌巧みな広報担当、佐伯智子。
そして、長い髭をたくわえた、儀式担当の神宮寺玄妙。
それぞれが、それぞれの欲望を胸に、この円卓を囲んでいた。
天井裏で息を殺す蒼真の耳に、聖堂院の芝居がかった声が届いた。
「……同志たちよ。全ては、計画通りだ」
聖堂院は、満足げに円卓を見回した。
「警察という旧世界の権力は、我らが神、橘蒼真様の手によって、塵芥と化した。そして今、日本中、いや、世界中が、神の御業に恐れおののいている。佐伯、状況は?」
広報担当の佐伯智子が、タブレット端末を操作しながら、得意げに報告する。
「 教祖様のお言葉通りです。警察署崩壊のニュース以降、我らが教団への入信希望や問い合わせが殺到しております。まさに、世界は我らの手に!」
「うむ、結構だ」
聖堂院は、大きく頷くと、その狂信的な瞳を、さらに爛々と輝かせた。
「そして……いよいよ明日だ。我らが悲願を成就させる、最後の儀式が執り行われる」
その言葉に、幹部たちの顔に、下劣な笑みが広がっていく。
「ついに、神の花嫁の……『聖婚の儀』ですな」
神宮寺が、厳かに言う。
「ああ。あの小娘――白石美月を、我らが神への、最高の生贄として捧げるのだ」
その言葉を聞いた瞬間、天井裏の蒼真の身体から、黒い魔力が、殺意となって漏れ出した。
ピシッ、と天井の梁に、小さな亀裂が入る。
(……生贄、だと……?)
彼の心臓が、氷の爪で鷲掴みにされたかのように、痛んだ。
円卓では、幹部たちの欲望に満ちた会話が続いていた。
「しかし、よろしいのですかな、教祖様」
口を開いたのは、参謀役の天野だった。
その声には、信仰心ではなく、ビジネスライクな確認の色が濃い。
「本当に、あの小娘を殺してしまって。神の怒りを買うのでは?」
その問いに、聖堂院は、心底おかしそうに、喉の奥で笑った。
「天野よ、お前はまだ分かっておらんのか。我らが神の怒りを買う? 違うな。我々は、神を『怒らせる』のだ」
「……と、申しますと?」
「簡単なことだ」
聖堂院は、両腕を広げた。
「我らが神、橘蒼真は、まだその力の全てを解放されてはいない。なぜか? あの白石美月という小娘が、『愛』という名の、くだらん枷となっているからだ。だが、その枷が外れた時、どうなる?」
聖堂院の言葉に、天野の目が、初めてギラリと光った。
「……なるほど。愛する者を失った絶望と怒りが、神の真の力を、完全に覚醒させる……という訳ですな」
「その通り!」
聖堂院は、拳でテーブルを叩いた。
「我々の手で、神の唯一の弱点を消し去るのだ! そうすれば、神は、我らの願いを、全て叶えてくださる! この腐敗した旧世界を、一度更地に戻し、我ら選ばれた民だけの、新世界を創造してくださるのだ!」
その狂気に満ちた宣言に、他の幹部たちも、欲望を剥き出しにして同調する。
「新世界の統治か! 俺たちが、神の右腕として、世界に君臨するってわけだ! たまらねえな!」
武闘派の黒崎が、筋骨隆々の腕を組んで、下品に笑う。
「そうなれば、もう金の心配などいりませんなァ。世界中の富が、我々のものになる!」
財務担当の村田が、腹を揺すって、金に汚い笑い声を上げた。
「ええ、ええ! 素晴らしいわ! 私が、新世界のメディアを全て掌握するのよ!」
広報の佐伯も、恍惚とした表情で頬を染めている。
彼らは、誰も彼もが、自分たちの欲望のことしか考えていなかった。
美月の命も、蒼真の心も、彼らにとっては、自分たちの野望を叶えるための、ただの「道具」でしかなかったのだ。
天井裏で、その全てを聞いていた蒼真の身体から、制御不能な魔力が、奔流となって溢れ出しそうになる。
(……こいつら……)
空気が、ビリビリと震える。
隠形魔法が、彼の激しい怒りに耐えきれず、明滅を始めた。
(……美月を……美月の命を……自分たちの、そんなくだらない欲望のために……!)
怒りが、憎しみが、殺意が、彼の精神の中で、臨界点を突破しようとしていた。
今すぐここに飛び降りて、眼下のクズどもを、一人残らず、塵になるまで焼き尽くしてやりたい。
だが、彼は、最後の理性を総動員して、それを必死に抑制した。
(……ダメだ。今、俺が動けば、美月が危ない)
ここで自分が正体を現せば、奴らは、人質である美月に何をするか分からない。
今は、耐える時だ。
明日の、儀式のその瞬間まで。
蒼真は、唇を噛み締めた。
あまりの力に、鉄の味が、口の中に広がる。
(……絶対に、許さない)
彼の心の中で、静かな、しかし、決して消えることのない誓いが立てられた。
(お前たちが、美月に与えようとした絶望を、苦痛を、恐怖を何万倍にもして、その魂に刻み込んでやる。お前たちが望んだ『神罰』とやらを、この俺が、直々に下してやる)
彼の瞳から、最後の人間的な光が、完全に消え去った。
そこに宿るのは、もはや復讐心ではない。
それは、害虫を駆除する際の、一切の感情を伴わない、絶対的な「摂理」。
狂信者たちの会議室では、明日の新世界誕生を祝う、醜悪な笑い声が、まだ響き続けていた。
その頭上で、本物の「神罰」が、静かにその執行の時を待っていることにも気づかずに。




