第62章
その日の夜。
月明かりすらない、真の闇が山間を支配していた。
木々が風に揺れる音だけが、まるで獣の寝息のように、静寂の中を渡っていく。
蒼真は、その闇よりも深く、冷たい気配を纏い、巨大な杉の木の梢から、眼下に広がる要塞を見下ろしていた。
「真理の光明会」本部。
昼間に見た白亜の建物群は、今は夜の闇に沈みながらも、要所要所に設置された投光器によって、不気味な白さで浮かび上がっている。
その光景は、まるで巨大な墓標の群れのようだった。
彼の心は、怒りと焦燥で焼き切れそうだった。
力任せの突入は、美月を危険に晒すだけだ。
必要なのは、情報。彼女の正確な居場所と、敵の内部構造。
蒼真は、静かに目を閉じた。
彼の身体から、淡い魔力の光が立ち上り、その輪郭を曖昧に溶かしていく。
幻影魔法。それは、自らの容姿、声、そして気配までもを、自在に変化させる魔法だ。
彼の鋭さを宿していた目元は、どこにでもいる平凡な青年のように、気の弱そうな垂れ目へと変わっていく。
黒髪は、少し癖のある平凡な茶髪に。
服装も、彼が着ていた黒のパーカーから、信者たちが纏う、粗末な純白の装束へと変化した。
数秒後、そこに立っていたのは、橘蒼真ではない。
どこか栄養失調気味で、頼りなげな印象を与える、二十代前半の、無個性な一人の信者だった。
「……よし」
声色も、別人になりきっている。
蒼真は地面を蹴った。
彼の身体は、音もなく闇を滑空し、高さ五メートルはあろうかという、鋭い鉄条網が張られたフェンスを、まるで鳥のように軽々と飛び越える。
敷地の内側に、猫のようにしなやかに着地した。
巡回していた警備の信者たちは、彼の侵入に全く気づく様子はない。
蒼真は、昼間に確認しておいた、ひときわ大きな建物――食堂棟へと向かった。
夕食の時間帯ならば、多くの信者が集まり、情報が交錯しているはずだ。
建物の隙間を縫うように、彼は影の中を滑るように進んでいく。
すれ違う信者たちは、彼の姿を見ても、軽く会釈をするだけで、誰もその正体に気づかない。
食堂棟の扉を開けると、むわりとした熱気と、質素な食事の匂いが彼を迎えた。
だだっ広いホールには、何十本もの長いテーブルが並び、信者たちが一様に白い装束を纏って、黙々と食事を口に運んでいる。
その光景は、異様としか言いようがなかった。
壁には、黒い魔神のような姿の蒼真を描いた巨大な絵が、いくつも掲げられている。
『浄化の神』『終末の救世主』といった、狂信的な文言が添えられていた。
蒼真は、顔を伏せながら配膳口へと並び、トレーに盛られた麦飯と、野菜の煮込み、そして薄いスープを受け取った。
食事の内容は、お世辞にも良いとは言えない。
だが、信者たちは、それを文句一つ言わず、むしろ感謝の祈りを捧げながら食べている。
彼は、ホールの中ほどにあるテーブルの空席に、音もなく腰を下ろした。
そして、周囲の会話に、全神経を集中させる。
「……聞いたか? 『聖婚の儀』は、明後日だそうだ」
隣のテーブルに座っていた、中年男性の信者が、声を潜めて向かいの若者に話しかけている。
「ああ……ついに、この時が来たのだな。神の花嫁様の、尊い犠牲によって……」
若者の声は、恐怖ではなく、恍惚とした響きを帯びていた。
「神の花嫁様の血は、聖水となってこの穢れた大地を清め、我ら選ばれし民だけを、新世界へと導いてくださる……。なんと、栄誉なことか」
「我らが神、橘蒼真様が、その真の御力を解放されるのも、もうすぐだ……」
その時だった。
食堂の入り口が騒がしくなり、一人の男が入ってきた。
人当たりの良さそうな笑顔を浮かべているが、その目は、値踏みするように、鋭く信者たちを観察している。
彼の白い装束は、他の一般信者のものよりも、明らかに上質で、清潔だった。
信者勧誘班長、田中純一だ。
田中は、食堂の中央に立つと、パン、と手を叩いて、全員の注意を引いた。
「兄弟姉妹の皆さん、夕食中に失礼します。一つ、聖堂院様からの伝達事項があります」
信者たちが、一斉に顔を上げる。
その目は、一様に尊敬と服従の色に染まっていた。
「ご存じの通り、我らが聖女、神の花嫁であられる美月様は、現在、大聖堂の東翼にある『聖女の間』にて、聖婚の儀に向け、その御身を清めておられます」
(――大聖堂、東翼、『聖女の間』)
蒼真は、その重要な情報を、脳裏に深く刻み込んだ。
田中は、その人当たりの良い笑顔のまま、しかし、有無を言わさぬ強い口調で続けた。
「美月様の清浄を保つため、儀式が終わるまで、何人たりとも『聖女の間』に近づくことは許されません。これは、巫女長であられる白鳥麗香様からの、絶対の命令です。よろしいですね?」
「「「はっ! 神の栄光のために!」」」
信者たちが、声を揃えて応える。
その声には、微塵の疑いもなかった。
(……なるほどな)
蒼真は、全てを理解した。
美月の居場所は、分かった。
だが、そこは、この要塞の最も中心であり、最も警備が厳重な場所でもあるはずだ。
夕食を終えた蒼真は、信者たちの流れに紛れて、宿舎棟へと向かった。
四人一部屋の、簡素な部屋。
壁には、やはり彼の姿を描いたポスターが貼られている。
信者たちは、ベッドに入ると、そのポスターに向かって、敬虔な祈りを捧げ始めた。
「おお、偉大なる破壊神、橘蒼真様……」
「我らが罪深き魂を許し、新世界へと導きたまえ……」
「明後日の聖なる儀を、滞りなく成就させたまえ……」
その光景は、滑稽で、そして、悍ましかった。
彼らは、自分を神と崇めながら、その神が最も大切に想う存在を、平然と殺そうとしている。
この狂信と無知の連鎖。その根源にある、教祖たちの邪悪な思惑。
(……全員、許さない)
蒼真は、部屋の隅で息を潜めながら、静かに決意を固めた。
信者たちが寝静まったのを確認すると、彼は音もなく部屋を抜け出し、建物の影へと身を隠す。
彼は、夜空にそびえ立つ、白亜の大聖堂を睨みつけた。
あの建物のどこかに、美月が恐怖と戦っている。
(待ってろ、美月。必ず、助け出す)
狂信者たちの要塞に、復讐の神が、静かに降臨しようとしていた。




