第61章
蒼真はメモを握りしめわなわなと震えている。
怒りと絶望が、彼の精神の中で混沌の渦を巻き、全てを飲み込もうとしていた。
だが、その混沌の底で、一つの冷たい決意が、新たな炎となって燃え上がった。
(……探す)
そうだ、まだ終わっていない。
美月は、まだ生きている。
ならば、探し出すだけだ。
蒼真は目を閉じ、意識を集中させ、広範囲探知魔法を使う。
それは、特定の魔力や生命の波動を、広大な範囲から探し出すための索敵魔法だ。
彼の身体から、青白い魔力の波紋が、さざ波のように広がっていく。
波紋は、孤児院を、都市を、そして関東平野全域を、一瞬にして覆い尽くした。
無数の生命の光が、彼の意識の中に流れ込んでくる。
その中から、彼はただ一つの、愛しい光を探し求める。
(美月の生命波動……彼女だけの、温かい光……どこだ……どこにいる……!)
数分間、彼は微動だにせず、精神を研ぎ澄ませた。
そして。
(――見つけた)
彼の意識が、一つの座標を捉えた。
それは、ここから北西へ百数十キロ。
深い山々の奥深く。
そこに、美月の微かな、しかし確かな生命の光が灯っていた。
そして、その周囲を、禍々しい気配が取り巻いている。
蒼真は、目を開いた。
その瞳には、もはや揺らぎはない。
彼は、握りしめていたメモを、魔力の炎で焼き尽くすと、夜の闇へと向かって、決意を固めた。
「待ってろ、美月。必ず、助けに行く」
◇
蒼真は空を駆けていた。
魔法で自らの身体を浮かせ、音速に近い速度で、昨夜捉えた座標へと向かう。
眼下には、眠りから覚め始めた都市の灯りが、まるで宝石箱のように広がっていたが、彼の心には何の感慨もなかった。
やがて、都市の景色は途切れ、どこまでも続く山々の稜線が見えてきた。
夜明け前の、最も深く、そして冷たい闇に包まれた山間部。
蒼真は、その一点で高度を下げると、気配を完全に消して、巨大な杉の木の梢に降り立った。
眼下に広がる光景に、彼は思わず息を呑んだ。
そこにあったのは、単なる山小屋や隠れ家などではなかった。
深い谷間の、広大な敷地を切り開いて、一つの「街」が形成されていたのだ。
中央には、天を突くようにそびえ立つ、白亜の大聖堂。
ゴシック様式のその建物は、ステンドグラスがはめ込まれ、夜明け前の薄明りの中でも、荘厳な威容を誇っている。
その大聖堂を取り囲むように、数百人は収容できそうな、近代的なコンクリート製の宿舎棟がいくつも並び、さらに奥には、巨大な食堂棟や、武道場のような訓練施設まで見て取れた。
敷地の外周は、高いフェンスと最新の監視カメラで固められ、要所要所には、白装束を纏った警備の信者たちが、鋭い視線を光らせて巡回している。
その動きは統率が取れ、一切の無駄がない。
(……なんだ、ここは。ただのカルト教団の施設じゃない。一つの、要塞だ)
その規模と警備の厳重さは、蒼真の予想を遥かに超えていた。
内部の正確な構造や、美月のいる具体的な場所までは、この距離からでは把握できない。
(……慎重に、いくしかない)
怒りに任せた力任せの突入は、最悪の場合、美月の命を危険に晒す。
まずは、潜入。そして、情報収集。
美月の居場所と、敵の戦力を正確に把握し、最も確実な方法で、彼女を救出する。
蒼真は、静かにその場から後退した。
太陽が、東の山の稜線から、ゆっくりと顔を出す。
朝の光が、白亜の要塞を照らし出し、その全貌を明らかにしていく。
彼は、森の奥深くへと身を隠しながら、もう一度、狂信者たちの要塞を睨みつけた。
その瞳には、昨夜の絶望的な怒りとは違う、どこまでも冷徹で、計算された殺意が宿っていた。
「必ず、助け出す。だから、もう少しだけ、待っててくれ、美月」
◇◇◇
美月が目を覚ました時、最初に感じたのは、肌を滑る絹の感触と、鼻腔をくすぐる白檀の香りだった。
(……どこ、ここ……?)
ゆっくりと瞼を押し上げる。
視界に飛び込んできたのは、彼女がこれまで見たこともないほど、豪奢な部屋の光景だった。
天蓋付きの巨大なベッドは、精緻な彫刻が施されたマホガニー製。
身体を包むシーツや掛け布団は、月光を練り込んだかのような光沢を放つ最高級のシルク。
壁には、神話の一場面を描いたであろう壮麗なタペストリーが掛けられ、磨き上げられた床には、毛足の長い純白の絨毯が敷き詰められている。
まるで、どこかのお姫様の寝室のようだった。
だが、その豪奢さは、美月の心に安らぎではなく、むしろ底知れない不安を植え付けた。
窓には、美しい装飾が施された鉄格子がはめ込まれ、外の景色を窺い知ることはできない。
部屋の隅で静かに煙を上げる香炉から漂う白檀の香りは、心を落ち着かせるどころか、意識を鈍らせる麻薬のように、ねっとりと空気に絡みついていた。
ここは、美しい牢獄だ。
美月は、その事実を直感した。
(蒼真くん……)
警察署で意識を失う直前の、彼の絶望に満ちた顔が脳裏に蘇る。
自分は、あの後どうなったのだろう。
そして、彼は無事なのだろうか。
不安に胸を締め付けられながら、美月はベッドから身体を起こした。
用意されていたのは、身体の線を拾わない、ゆったりとした純白のワンピース。
着心地は良いが、まるで囚人服のように感じられた。
その時だった。
カチャリ、と静かな音を立てて、部屋の扉が開かれた。
入ってきたのは、一人の女性だった。
雪のように白い肌に、腰まで届く艶やかな黒髪。
モデルのように均整の取れた体躯は、同じく純白の巫女装束に包まれている。
その佇まいは、神話の中から抜け出してきた女神のように、神秘的で、そして人間離れした美しさを放っていた。
だが、その瞳を見た瞬間、美月は全身の血が凍るような感覚に襲われた。
女の瞳は、穏やかに微笑んでいる。
しかし、その奥には、一切の感情を映さない、ガラス玉のような無機質な光が宿っていた。
それは、狂信者だけが持つ、絶対的な信仰と、それ以外の全てを無価値と断じる、冷たい光だった。
「お目覚めになられましたか、美月様」
その女は優雅な仕草で一礼すると、滑るように美月の元へと歩み寄った。
「あなたは、どなたですか? ここは、どこなんですか?」
美月は、震える声で尋ねた。
「私は、白鳥麗香と申します。『真理の光明会』にて、巫女長を務めさせていただいております。ここは、我らが聖地。そして、あなた様は、我々が丁重にお迎えした、最も尊いお客様です」
「お客様……? どういう、ことですか……」
白鳥は、美月の隣に腰を下ろすと、その冷たい手を、優しく握った。
その仕草は慈母のようだったが、美月には蛇に睨まれた蛙のような恐怖しか感じられない。
「美月様。あなたは、選ばれたのです」
白鳥は、うっとりとした表情で、天を仰いだ。
「我らが崇める、現世の破壊神――橘蒼真様の、唯一無二の『花嫁』として」
「……え?」
美月の思考が、完全に停止した。
破壊神? 橘蒼真? 花嫁?
目の前の女が、何を言っているのか、全く理解できなかった。
「蒼真くんは、彼はどこにいるんですか!?」
美月は、思わず白鳥の腕を掴んでいた。
白鳥は、感嘆のため息を漏らすと、再び美月を見つめた。
その瞳には、憐れみと、そして嫉妬のような、複雑な色が混じっている。
「美月様。あなた様には、これから、最も神聖な役目を果たしていただきます」
「役目……?」
「はい」
白鳥は、にっこりと、聖母のように微笑んだ。
そして、世界で最も恐ろしい言葉を、世界で最も穏やかな声で、彼女に告げた。
「あなたは、三日後に行われる『聖婚の儀』にて、その尊い命を、我らが神、橘蒼真様に捧げていただくのです。あなたの血は、この穢れた世界を浄化し、我ら選ばれた民を、新世界へと導く聖水となる……。なんと、栄誉なことでしょう」
「…………は?」
美月の頭の中が、真っ白になった。
命を、捧げる?
血が、世界を浄化する?
それは、つまり。
(……私、殺されるの……?)
全身から、急速に血の気が引いていく。
指先が、氷のように冷たくなっていく。
呼吸の仕方も、忘れてしまったかのようだった。
「そ、そんな……! 嘘、ですよね……? 冗談、ですよね……!?」
「いいえ、これは神託です。我らが神の、御心なのです」
そして、彼女は、美月の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「でも、ご安心ください。儀式が終われば、あなたは永遠に、神様の一部となることができるのです。魂となって、ずっと、ずっと、神様のおそばにいられるのですよ。……羨ましい、本当に、羨ましい限りです」
その狂信的な瞳が、爛々と光る。
美月は、完全に言葉を失った。
この女は、本気だ。
心の底から、自分がおかしなことを言っているとは、微塵も思っていない。
常識も、倫理も、人の心も、この女には一切通用しない。
その時、部屋の扉が、再びノックされた。
入ってきたのは、長い髭をたくわえ、厳格な僧侶のような黒い衣を纏った、初老の男だった。
その目つきは鋭く、全身から、儀式を司る者特有の、近寄りがたい雰囲気を放っている。
儀式担当幹部の、神宮寺玄妙だった。
「白鳥巫女長、失礼いたします。大聖堂の祭壇の準備について、ご相談が……」
神宮寺は、美月に一瞥もくれることなく、事務的な口調で白鳥に話しかける。
「ああ、神宮寺殿。ご苦労様です。いかがですか、準備の進捗は?」
「はっ。祭壇に捧げる『聖なる刃』の選定は完了いたしました。あとは、生贄を縛り付けるための『清めの鎖』の最終調整を残すのみです。儀式の開始までには、完璧に間に合います」
生贄。縛り付ける。刃。
二人の間で交わされる、淡々とした会話。
その一つ一つの単語が、鋭い杭となって、美月の心に打ち込まれていく。
(……本当、なんだ……)
これは、夢でも、冗談でもない。
自分は三日後、殺されるのだ。
全身の力が、抜け落ちていく。
立っていることすらできず、美月はその場にへたり込んだ。
視界が、涙で滲んでいく。
(いや……いやだ……死にたくない……)
恐怖が、津波のように彼女の心を飲み込んでいく。
(蒼真くん……助けて……)
警察に捕まった時とは、質の違う恐怖。
あの時は、蒼真が必ず助けに来てくれると、心のどこかで信じていられた。
どんなに絶望的な状況でも、彼だけは信じられる。
あの不器用な優しさを、自分だけに見せてくれる寂しげな笑顔を、誰よりも知っているのだから。
(蒼真くんは、絶対に私を助けに来てくれる。だから、それまで……負けちゃ、ダメだ……!)
美月は、涙をぐっと堪え、震える足で、再び立ち上がった。
その瞳には、恐怖に屈しない、強い意志の光が、確かに宿っていた。




