第60章
蒼真が破壊の限りを尽くした警察署の廃墟を後にした頃、郊外の孤児院「ひだまりの家」は、異様な静寂と、狂信の熱気に包まれていた。
建物の周囲を、音もなく取り囲む数十人の集団。
彼らは全員、純白の装束に身を包み、その手には蝋燭が灯されている。
闇夜に揺らめく無数の炎が、彼らの顔を不気味に照らし出していた。
その瞳は、誰もが同じ方向――孤児院の建物に向けられ、恍惚とした光を宿している。
その集団の中心に、一人の老人が立っていた。
カルト宗教団体「真理の光明会」の教祖、聖堂院慈海。
長く伸ばした白髪と、同じく真っ白な髭が、預言者のような神秘的な雰囲気を醸し出している。
だが、その瞳の奥に宿る光は、正常な人間のそれではない。
狂信と、選民思想と、そして底知れない欲望が、どろりとした粘液のように渦巻いていた。
彼の腕の中には、意識を失ったままの美月が、まるで聖なる生贄のように抱えられている。
「時は、満ちた」
聖堂院は、芝居がかった仕草で夜空を仰いだ。
「破壊神は、我らが同胞の祈りに応え、腐敗した権力に神罰を下された。今こそ、神の花嫁を、我らが聖域へとお迎えする時だ」
彼の言葉に、周囲の白装束の信者たちが、うっとりと頷く。
「「「おお、我らが神、橘蒼真様……」」」
「「「聖なる花嫁、白石美月様……」」」
彼らは、何の躊躇もなく、美月を抱えた聖堂院を先頭に、闇の中へと消えていった。
後に残されたのは、主を失った静寂と、一枚の不吉な置き手紙だけだった。
◇
それから、一時間後。
一体の影が、音もなく孤児院の庭に舞い降りた。
橘蒼真だ。
警察署を完全に破壊し、全ての復讐を終えたはずの彼の心を満たしていたのは、しかし、達成感ではなかった。
むしろ、その逆。全てを壊しても、何も満たされない。
その虚無感が、彼の心を冷たく支配していた。
(……美月)
だが、彼女がいる。
彼女さえいれば、自分はまだ、人間でいられる。
彼女の笑顔が、温もりが、この虚しい心を埋めてくれるはずだ。
蒼真は、逸る心を抑えながら、玄関のドアに手をかけた。
ギィ、と湿った音が、やけに大きく響く。
「美月、ただいま」
彼は、少しだけ優しい声色を作って、呼びかけた。
だが、返事はない。
代わりに、彼の目に飛び込んできたのは、荒らされた室内の光景だった。
物が散乱し、窓が開け放たれている。
蒼真の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
警察の残党か? いや、あの場の全員を無力化したはずだ。
では、誰が?
彼は、転がるようにして、美月を寝かせたはずの部屋へと駆け込んだ。
そこには、誰もいなかった。
ベッドは空っぽで、掛け布団が乱暴に床に落ちている。
「……美月……?」
蒼真の口から、掠れた声が漏れた。
まさか。そんなはずはない。
自分は、彼女を最も安全な場所へと転移させたはずだ。
なのに、なぜ。
彼の視線が、枕元に置かれた一枚の紙片を捉えた。
それは、明らかにこの部屋にそぐわない、上質な和紙に、流麗な筆文字で書かれたメモだった。
彼は、震える手で、そのメモを拾い上げた。
そこに記されていた言葉を、彼の目がゆっくりと追う。
『神の花嫁たる白石美月様は、我ら「真理の光明会」にて、丁重にお預かりいたしました。我らが神、橘蒼真様のお越しを、信徒一同、心よりお待ち申し上げております』
「……神の、花嫁……? 真理の、光明会……?」
意味が、分からなかった。
脳が、理解を拒絶する。
神? 花嫁? いったい、何の話だ?
だが、一つだけ、確かなことがある。
美月が自分の知らない敵に、奪われたという、絶望的な事実。
(まただ……)
蒼真の膝から、力が抜けた。
彼は、その場に崩れ落ちる。
(また、俺は……美月を、守れなかった……)
警察署を破壊した、あの圧倒的な力は何だったのだ。
全ての敵を叩き潰した、あの復讐は何だったのだ。
結局、何も変わらない。
自分は、最も大切なもの一つ、守ることすらできない。
その無力感が、彼の心を、今度こそ完全にへし折ろうとしていた。
「ああ……あ……」
彼の喉から、意味にならない声が漏れる。
メモを握りしめた拳が、わなわなと震える。
蒼真は、ふらつく足で立ち上がると、孤児院の外へと飛び出した。
冷たい夜風が、彼の頬を打つ。
彼は、天を仰いだ。
そこには、ただ無数の星々が、嘲笑うかのように瞬いているだけ。
「美月ーーーーーーーーーッ!!」
魂の底からの絶叫が、静まり返った夜空に響き渡った。
それは、愛する者の名を呼ぶ、悲痛な叫びであり、己の無力さを呪う、慟哭だった。
(神? ふざけるな……)
彼の心の中で、絶望が、再び黒い炎となって燃え上がる。
警察への怒りとは違う。
もっと冷たく、もっと根源的な、この理不尽な世界そのものへの怒り。
(俺を神と呼ぶか。ならば、見せてやる)
蒼真は、天に向かって右手を突き上げた。
その指先に、黒い雷が、まるで蛇のように集束していく。
「美月を返せッ!!」
ゴオオオオオオオッ!
彼の怒りに呼応するように、天から巨大な雷の柱が落ち、近くの森を薙ぎ払った。
(全部、潰してやる)
美月を脅かすものは、この世界の全てが、彼の敵だ。
蒼真は夜空を見上げ続けた。
その瞳に宿るのは、もはや悲しみではない。
次なる復讐への、揺るぎない決意の光だった。
「待ってろ、美月。今度こそ……必ず」
復讐の連鎖は、終わらない。
むしろ、より深く、より絶望的な螺旋を描きながら、加速していく。
一人の少年が、社会から完全に孤立し、世界そのものに牙を剥く、新たな戦いの幕が、静かに上がった。




