第58章
蒼真は、虚ろな瞳で怯える美月の前に、静かに膝をついた。
彼の心を満たしていたのは、もはや絶望ではない。
全てを焼き尽くすほどの怒りでもない。
それは、どこまでも静かで、どこまでも冷たい、純粋な殺意の海だった。
だが、その殺意の全ては、今、目の前の少女にだけは向けられていなかった。
彼は、震える手をゆっくりと持ち上げ、美月の額にそっと触れた。
その肌は、氷のように冷たい。
「……大丈夫だ、美月」
蒼真は、自分でも驚くほど穏やかな声で囁いた。
彼の手のひらが、柔らかな黄金色の光を放ち始めた。
その光は、目を焼くほどに白い裸電球の光とは対極にある、どこまでも優しく、温かい光だった。
それはまるで、春の陽だまりそのものが凝縮されたかのように、美月の冷え切った身体と心を、ゆっくりと包み込んでいく。
「……戻ってこい、美月。俺のところに」
蒼真は、祈るように呼びかける。
光は、美月の額から浸透し、彼女の精神の最も深い場所へと到達する。
そこには、毒島という悪魔によって植え付けられた、黒い呪詛の言葉が、まるで茨のように絡みついていた。
『蒼真は危険だ』『お前のせいだ』『お前も殺される』
光は、その邪悪な茨を、一つ一つ丁寧に、溶かすように消滅させていく。
美月の身体から、ふっと力が抜けた。
虚ろだった瞳に、微かな光が灯り始める。
焦点の合わなかった瞳が、ゆっくりと動き、目の前にいる蒼真の姿を捉えた。
「……そう、ま……くん……?」
掠れた、夢うつつのような声。
その声を聞いた瞬間、蒼真の胸に、安堵と、そしてどうしようもない愛しさが込み上げてきた。
「ああ、俺だ。美月」
光が、さらに輝きを増す。
美月の瞳から、ぽろり、と一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは、恐怖に汚された涙ではない。
魂が解放された、浄化の涙だった。
絡みついていた呪詛の茨が、完全に消え去る。
彼女の瞳に、確かな意志の光が、力強く戻ってきた。
「蒼真くんっ……!」
次の瞬間、美月は、叫び声と共に蒼真の胸に飛び込んできた。
その細い腕が、彼の背中に力いっぱい回される。
まるで、二度と離さないとでも言うように。
「うわああああ……! 蒼真くん、蒼真くん……! 」
美月は、子供のように泣きじゃくった。
彼女の涙が、蒼真の服を熱く濡らしていく。
その温かさが、彼の凍てついた心に、唯一の人間性を留めていた。
「怖かった……! すごく、怖かったよぉ……!」
「ああ、分かってる。もう大丈夫だ」
蒼真は、震える彼女の身体を、壊れ物を抱きしめるように、優しく、しかし力強く抱きしめた。
彼女の髪から香る、懐かしい匂い。
腕の中に感じる、確かな存在感。
それら全てが、彼にとっての世界そのものだった。
「この人たちが……! 『蒼真くんは危険だ』って……『あなたを不幸にする』って、何度も、何度も……!」
美月は、嗚咽を漏らしながら、必死に言葉を紡ぐ。
「でも……でもね、心の奥の、本当に奥の方では、ずっと信じてた……! 蒼真くんは、絶対にそんな人じゃないって……!」
その言葉は、蒼真にとって、何よりの救いだった。
この少女だけは、自分を信じてくれていた。
世界の全てが敵になっても、彼女だけは、自分の魂の光を信じ抜いてくれたのだ。
「……ありがとう、美月」
蒼真は、彼女の髪に顔を埋め、呟いた。
「もう、大丈夫だ。俺がお前を、必ず守る。絶対にだ」
二人は、時間も忘れて、ただ固く抱きしめ合っていた。
それは、絶望の淵で再会を果たした、二人の魂の儀式だった。
その神聖な時間を、下卑た舌打ちが打ち破った。
チッ。
音のした方を見ると、取調室の隅で腕を組んでいた毒島が、心底つまらなそうな顔で二人を睨みつけていた。
「……やれやれ。せっかく時間をかけて、丁寧に『仕込んで』やったというのに。化け物め、そんな芸当までできるとはな」
その言葉を聞いた瞬間。
蒼真の瞳から、美月を想う優しさが、完全に消え失せた。
彼の視線は、絶対零度の氷と化し、毒島を射抜く。
その視線に射竦められ、毒島の顔から余裕の笑みが消え、微かな恐怖が浮かんだ。
蒼真は、ゆっくりと美月の身体を離すと、彼女の目を見て、最後の優しい言葉をかけた。
「美月、疲れただろう。少しだけ眠っていてくれ。すぐに終わらせるから」
「え……? 蒼真くん……?」
戸惑う美月に、彼は有無を言わさず、その両の掌で彼女の目を覆い、眠りの魔法をかける。
美月は瞬時に蒼真の腕の中で静かに眠りについた。
そして、蒼真は空間を司る魔法の呪文を短く詠唱する。
彼の足元に、複雑な幾何学模様の魔法陣が、青白い光を放って浮かび上がった。
「――《次元の扉》」
光が、一際強く輝いたかと思うと、蒼真の腕の中にいたはずの美月の身体が、ふっと掻き消えるようにいなくなった。
彼女は、この汚れた場所から、最も安全な場所――あの孤児院へと転移させられたのだ。
しん、と静まり返った取調室。
残されたのは、蒼真と、そして恐怖に顔を引きつらせる毒島と部下だけだった。
蒼真は、ゆっくりと立ち上がった。
その全身から、黒い魔力のオーラが、陽炎のように立ち上っている。
部屋の空気が、彼の怒りに共鳴して、ビリビリと震えていた。
彼は、毒島を見据える。
その口元には、微かな笑みさえ浮かんでいた。
だが、それは、慈悲や喜びとは無縁の、死神の微笑みだった。
「さて」
蒼真は、一歩、毒島へと踏み出した。
「お前が、俺の美月を苦しめたんだな?」
その声は、どこまでも静かだった。
だが、その静けさこそが、彼の怒りがもはや人間の感情の域を超え、絶対的な自然現象へと変質したことを物語っていた。
「ひ……ひぃっ……!」
毒島は、腰を抜かして後ずさる。
彼の本能が、目の前にいる存在が、もはや人間ではない、抗うことすら許されない「死」そのものであることを理解していた。
蒼真は、笑みを深める。
「美月を苦しめた報いを、受けろ」
その言葉を最後に、蒼真の姿が掻き消えた。
直後、毒島の背後に現れた蒼真の手が、その首を鷲掴みにする。
「ぎ……ぁ……」
毒島の恐怖に歪む顔と、蒼真の冷酷な笑み。
灰色の取調室で、一人の人間が、完全な復旧者へと変貌を遂げた瞬間だった。
これから始まるのは、もはや戦闘ではない。
一方的な、そしてどこまでも残酷な、断罪の時間だった。




