第57章
警視庁は白昼の光を浴びながらも、その内側には権威という名の冷たい影を落としていた。
蒼真は、その正面玄関から、まるで招待された客人のように堂々と足を踏み入れた。
幻影魔法は解いている。もはや、正体を隠す必要も、その意思もなかった。
彼の侵入は、署内の全員に瞬時に伝えられた。
「 正面玄関! 橘蒼真だ!」
「各員、直ちに迎撃準備!」
署内に、怒号とけたたましいブザー音が鳴り響く。
廊下の向こうから、拳銃を構えた制服警官たちが十数名、殺到してきた。
彼らの顔には、恐怖と、そして手柄を立てようという浅ましい功名心が浮かんでいる。
「撃て!」
誰かが叫んだ。
蒼真は、迫りくる警官たちに一瞥もくれず、ただ一言、凍てつくような声で呟いた。
「――邪魔だ」
その瞬間、廊下の空気が歪んだ。
不可視の衝撃波――魔力の奔流が、警官たちを襲う。
「ぐあっ!?」
「な、何が……がはっ!」
銃声一つ響くことなく、屈強な男たちの身体が、まるで巨大なハンマーで殴りつけられたかのように吹き飛び、壁や床に叩きつけられて意識を失った。
人体が砕ける鈍い音が、廊下に不協和音となって響き渡る。
蒼真は、転がる身体を乗り越え、無人の荒野を行くように、署内の奥へと進んでいく。
彼の目的は一つだけ。
この建物のどこかに囚われているであろう、美月の救出。
「美月はどこだ!」
彼は、すれ違う職員の胸ぐらを掴み上げ、問い詰める。
職員は、目の前で起こった超常的な光景に腰を抜かし、恐怖に引きつった顔で、震える指をある方向へと差し示した。
「ひぃぃ……あ、あちらの……特別取調室に……!」
蒼真は職員を投げ捨てると、示された方角へと疾走した。
「特別取調室」とプレートが掲げられた区画には、鉄製の重々しい扉がいくつも並んでいる。
彼は、一つ目の扉に手をかけた。
鍵がかかっている。
だが、そんなものは彼にとって、何の障害にもならない。
ミシリ、と嫌な音を立てて、鋼鉄のドアノブが彼の握力だけで捻じ切れる。
蒼真は扉を蹴破り、中を確認する。空っぽだ。
次、また次と、彼は破壊の限りを尽くして、全ての扉をこじ開けていく。
その度に、署内に絶望的な破壊音が響き渡った。
そして、五つ目の扉を破壊した時。
彼の目に、その光景が飛び込んできた。
窓一つない、灰色の小部屋。
天井から吊り下げられた裸電球が、目を焼くほどに白い光を放っている。
その中央で、一人の少女が、力なくパイプ椅子にもたれかかっていた。
「……み、づき……?」
蒼真の声が、微かに震えた。
そこにいたのは、彼が知っている白石美月ではなかった。
艶やかだった黒髪は乱れ、透き通るようだった白い肌は、病的なまでに青白い。
隈のできた目元は深く落ち窪み、生気のない瞳は、虚ろに床の一点を見つめている。
数時間という短い時間で、彼女の生命力そのものが、ごっそりと削り取られていた。
「美月! 大丈夫か!」
蒼真は、全てを忘れて彼女の元へと駆け寄った。
その肩に手を触れようとした、その瞬間。
「――ひっ!」
美月の身体が、ビクッと大きく震えた。
まるで、恐ろしいものに触れられたかのように、彼女は蒼真から逃れようと身を捩る。
「……蒼真、くん……?」
怯えきった、か細い声。
その瞳が、ゆっくりと蒼真を捉える。
だが、そこに宿っていたのは、再会の喜びではなかった。
純粋な、そして絶対的な――恐怖の色だった。
「蒼真くん……もう、やめて……」
美月は、震える声で言った。
その言葉の一つ一つが、鋭いガラスの破片となって、蒼真の心を突き刺す。
「お願いだから……もう、悪いことはやめて……。あなたが、怖い……」
――あなたが、怖い。
その一言を聞いた瞬間、蒼真の世界から、音が消えた。
時間が、止まった。
心臓を、氷の矢で貫かれたような衝撃。
足元から、世界そのものが崩れ落ちていくような、圧倒的な喪失感。
(……怖い? 俺が? 美月、お前……何を、言っているんだ……?)
彼は、彼女を守るために戦ってきた。
彼女の笑顔を取り戻すためだけに、この手を汚してきた。
その彼女から、拒絶される。
信じていた唯一の光に、裏切られる。
これ以上の絶望が、この世にあるだろうか。
「美月……俺を、信じてくれないのか……?」
絞り出した声は、自分でも驚くほど情けなく、震えていた。
彼の瞳から、急速に光が失われていく。
復讐の炎も、守るべきものへの愛情も、全てが虚無の闇に飲み込まれていく。
だが。
その絶望の淵で、蒼真は魔力の込めた眼で彼女を見た。
恐怖に歪む美月の瞳の、その奥の奥。
そこには、彼女自身の意志ではない、まるで操り人形の糸のような、不自然で禍々しいものが微かに揺らめいていた。
(……そうか)
蒼真の脳裏で、全てのピースがはまった。
彼女は、裏切ったのではない。
裏切らされたのだ。
壊されたのだ。
この建物にいる、人間を名乗る悪魔たちによって。
(そうか……お前らが、美月を……こんな姿に……)
瞬間、彼の心の中で、何かが音を立てて砕け散った。
世界が崩れ落ちるような絶望は、消え去った。
代わりに、その虚無の底から、マグマのように熱く、そして深海のように冷たい感情が、ゆっくりと湧き上がってくる。
それは、悲しみだった。
愛する者を、守れなかった後悔。
彼女をこんな目に遭わせてしまった、自分への怒り。
そして、その悲しみと怒りは、やがて、一つの純粋な感情へと収束していく。
――殺意。
絶対的な、そして一切の情状酌量の余地のない、冷徹な殺意。
蒼真は、ゆっくりと顔を上げた。
その顔から、全ての表情が消え失せていた。
瞳は、もはや人間のものではなかった。
ただ、対象を認識し、排除することだけを目的とした、無機質なガラス玉のようだった。
彼は、怯える美月の頭を、壊れ物を扱うかのように、そっと撫でた。
「……大丈夫だ、美月」
その声は、驚くほど穏やかだった。
だが、その静けさの下には、星々をも凍らせるほどの、絶対零度の怒りが渦巻いていた。




