第56章
美月が連行された先は、光の届かない、建物の深部だった。
その部屋は、あまりにも狭く、そして無機質だった。
三畳ほどの空間は、灰色に塗られたコンクリートの壁に四方を囲まれ、窓一つない。
唯一の光源は、天井から吊り下げられた裸電球。
それは、目を焼くほどに白く、そして冷たい光を、絶え間なく部屋に満たしていた。
部屋の中央には、傷だらけの金属製の机と、硬いパイプ椅子が一つだけ。
まるで、人間から温かみという感情を奪うために設計されたかのような、無慈悲な空間だった。
「さあ、白石美月さん。どうぞ、お座りください」
促したのは、彼女をここに連れてきた男――毒島だった。
爬虫類を思わせる冷たい瞳が、値踏みするように美月をねめつけている。
美月は、恐怖に震える身体を叱咤し、パイプ椅子に腰を下ろした。
ギッ、と金属が軋む音が、静寂の中で不気味に響く。
毒島は、彼女の向かいに腰を下ろすと、机の上で指を組んだ。
その背後には、表情を消した二人の屈強な刑事が、まるで石像のように佇んでいる。
「さて……」
毒島は、口元に陰湿な笑みを浮かべた。
「これから、君と我々で、ゆっくりとお話をしましょう。君と、そして君の大切な橘蒼真くんのために、ね」
その言葉は、蜂蜜のように甘く、そして毒のように冷たかった。
これが、地獄の始まりだった。
◇
取り調べは、執拗かつ陰湿だった。
毒島は、決して声を荒らげたりはしない。
むしろ、その口調は終始、心配する保護者のように穏やかだった。
だが、その言葉の端々には、鋭い棘が無数に仕込まれていた。
「まず、確認しておきたいのだがね、美月さん。君は、橘蒼真がどれほど危険な存在か、理解しているのかね?」
「……蒼真くんは、危険な人じゃありません」
美月は、か細いながらも、はっきりと答えた。
「ほう? だが、彼は父親を半殺しにし、学校の生徒を病院送りにし、挙句の果てには我々警察官にまで手を上げた。これを危険と言わずして、何と呼ぶのかな?」
「それは……彼らが、蒼真くんを傷つけようとしたからです! 蒼真くんは、ただ自分を守ろうとしただけで……!」
毒島の蛇のような目が、すっと細められる。
「君が病気になったのも、橘蒼真のせいだ。彼が、君を終わりのない争いに巻き込んだ。彼さえいなければ、君は今頃、普通の女子高生として、平和に暮らしていたはずなんだ。そうは思わないかね?」
その言葉は、巧みに真実と嘘を織り交ぜ、美月の心に罪悪感という名の楔を打ち込もうとする。
「ち、違います……!」
美月は、必死に首を横に振った。
「蒼真くんは、私を守ってくれました! 悪い人たちから、ずっと……!」
「守ってくれた、か。なるほど」
毒島は、わざとらしく頷くと、一枚の古い新聞記事のコピーを机の上に置いた。
それは、数年前に起こった、ある交通事故を報じる記事だった。
美月の心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
記事には、彼女の両親の名前が記されていた。
「……これは……」
「君のご両親の事件だ。確か、正義感の強い新聞記者だったとか。……そして、政治家の汚職を追っていた矢先に、不審な事故で亡くなられた」
毒島は、美月の顔を覗き込むようにして、囁いた。
その声は、悪魔の誘惑のように甘美だった。
「君は、これがただの事故ではないと、今でも信じているんだろう? 君のご両親は、君と同じように、危険な相手に手を出した結果、殺されたんだ」
「や……やめて……」
美月の呼吸が、浅くなる。
忘れたいのに忘れられない、心の最も深い場所にある傷。
それを、この男は容赦なく抉り出してくる。
「橘蒼真も、同じだよ」
毒島の言葉が、とどめを刺した。
「彼は、この国の秩序という、あまりにも危険な相手に手を出した。そして、君を巻き込んでいる。……君も、ご両親と同じ運命を辿りたいのかね? 彼と一緒に、破滅の道を歩みたいと?」
「違う……蒼真くんは、そんな人じゃない……!」
涙が、美月の瞳から堰を切ったように溢れ出した。
だが、その涙も、毒島にとっては愉悦を深めるためのスパイスでしかなかった。
「そうかな? だが、現に君はこうして、我々に『保護』されている。これも全て、橘蒼真のせいだ。彼が君を不幸にしている。その事実から、目を背けてはいけないよ」
取り調べは、何時間も続いた。
食事も、水も、与えられない。
硬い椅子に座り続けた身体は、節々が悲鳴を上げていた。
天井の裸電球が放つ無慈悲な光が、容赦なく体力を奪っていく。
美月の思考は、次第に鈍くなっていった。
毒島の言葉が、まるで呪いのように、頭の中で反響する。
(私のせい……? 私が、蒼真くんを……?)
(蒼真くんは、危険な人……?)
違う、と叫びたいのに、声が出ない。
信じたいのに、心が揺らぐ。
疲労と空腹と、そして絶え間ない心理的圧力によって、彼女の精神は、少しずつ、しかし確実に削り取られていった。
(蒼真くん……)
朦朧とする意識の中、彼女は心の中で、愛しい彼の名前を呼んだ。
(助けて……)
彼の温かい腕。優しい声。
自分だけに見せてくれる、あの寂しげな笑顔。
それら全てが、今は遠い夢のように感じられた。
どれほどの時間が経っただろうか。
毒島は、ぐったりと机に突っ伏した美月の姿を満足げに眺めると、ゆっくりと立ち上がった。
「……ふむ。今日は、このくらいにしておこうか」
彼は、背後で控えていた刑事に、目配せをした。
「この小娘を、別の部屋へ。もちろん、食事も水も与えるな」
「はっ」
刑事が、美月の腕を乱暴に掴んで引きずるように立たせる。
彼女には、もう抵抗する力も残っていなかった。
部屋を出る間際、毒島は美月の耳元で、再び囁いた。
「まだ、時間はたっぷりある。君が、我々の望む『正しい答え』を出すまで、このお話は終わらない。……ゆっくり、考えるといい」
その声には、一片の同情もなかった。
ただ、獲物を嬲る捕食者の、冷酷な愉悦だけが満ちていた。
バタン、と鉄の扉が閉まる。
後に残されたのは、絶対的な暗闇と、冷たい床の感触だけ。
美月の心は、深い、深い絶望の淵へと突き落とされた。
壁の向こうから聞こえる、男たちの下卑た笑い声が、彼女の耳にいつまでもこびりついて離れなかった。




