第55章
蒼真は、昨日までとは比べ物にならないほど軽い足取りで、総合病院の自動ドアをくぐった。
手には、美月が好きだと言っていた小さな洋菓子店の、フルーツタルトの箱を提げている。
(今日の午後には退院だ。そうしたら、二人でこれを食べよう)
幻影魔法で変えた「従兄弟」の顔の下で、蒼真の口元は自然と綻んでいた。
この四日間、彼は毎日欠かさず美月の元へ通った。
日に日に血色を取り戻し、笑顔が増えていく彼女の姿を見ることが、今の彼にとって何よりの喜びであり、救いだった。
警察の監視の目は、日に日に数を増している。
それは分かっていた。
だが、それも今日までだ。
退院さえしてしまえば、すぐにでもこの街を離れ、二人だけの本当の安息の地を探す。
その希望が、彼の心を明るく照らしていた。
エレベーターを降り、慣れた足取りで美月のいる病室へと向かう。
廊下に響く自分の靴音すら、どこか弾んでいるように感じられた。
「美月、来たぞ」
彼は、扉をノックするのももどかしく、少しだけ声を弾ませてドアを開けた。
そして――その場で凍り付いた。
そこに広がるはずだった、彼女の優しい笑顔。
「蒼真くん!」と、嬉しそうに自分を呼ぶ声。
それらは、どこにもなかった。
病室は、がらんとしていた。
綺麗に整えられたベッドの上には、誰もいない。
シーツには皺一つなく、まるで最初から誰もいなかったかのように、冷たい静寂が部屋を支配している。
昨日まで確かにそこにあった、彼女の私物も、彼が差し入れた本も、何もかもが跡形もなく消え去っていた。
「……え?」
蒼真の口から、間抜けな声が漏れた。
頭が、状況を理解することを拒絶する。
心臓が、嫌な音を立てて脈打ち始めた。
「美月……?」
彼は、夢遊病者のように部屋の中へ足を踏み入れた。
ベッドに触れる。冷たい。
彼女の温もりは、どこにも残っていなかった。
「美月! どこだ、美月!」
最初は小さな呟きだった声は、次第に切迫した叫びへと変わっていく。
彼は、部屋の隅にあるクローゼットを乱暴に開け放った。
空っぽだ。どこにも、彼女の姿はない。
「冗談だろ……おい、美月!」
パニックが、彼の冷静な思考を急速に侵食していく。
まさか、病状が急変して、別の部屋に移されたのか?
いや、それなら連絡があるはずだ。
では、どこへ? 彼女はどこへ消えたんだ?
蒼真は、狂ったように病室を飛び出した。
廊下を走る彼の足音が、静かな病棟に不気味に響き渡る。
「すみません!」
ちょうど通りかかった、昨日も顔を合わせた看護師の腕を、彼は強い力で掴んだ。
「ひゃっ!?」
突然腕を掴まれた看護師は、驚きに目を見開く。
その瞳に、蒼真の尋常ではない様子が映り、恐怖の色が滲んだ。
「し、白石さんの付き添いの……」
「美月はどこだ! あの部屋にいたはずの彼女は、どこに行った!」
蒼真の詰問する声は、怒りと焦燥で低く唸るようだった。
彼の剣幕に、看護師は完全に怯えきっている。
「お、落ち着いてください! あの……白石さんなら……」
「どこなんだと聞いている!」
蒼真が語気を強めると、看護師の身体がびくりと震えた。
彼女は、恐怖に引きつった顔で、おずおずと口を開く。
「け、警察の方が……今朝早くに……」
「――警察、だと?」
その単語を聞いた瞬間、蒼真の頭の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
全身の血が、急速に冷えていく感覚。
「……なぜ、警察が美月を?」
彼の声から、感情が抜け落ちていた。
それは、嵐の前の静けさにも似ていた。
「わ、私にも詳しいことは……『重要参考人なので』と……。それと、『テロリストからの緊急保護』とも……」
「緊急……保護……?」
蒼真は、看護師の腕を掴んでいた手を、力なく離した。
脳裏に、これまでの出来事が走馬灯のように駆け巡る。
自分を執拗に追う警察。
そして、この病院を常に監視していた、無数の目。
――全てが、繋がった。
彼らが狙っていたのは、自分だけではなかったのだ。
自分の唯一の弱点である彼女を――。
「……ああ、そうか。そういうことか……」
蒼真の口から、乾いた笑いが漏れた。
それは、絶望と、殺意と、そしてどうしようもない自己嫌悪が混じり合った、壊れた音だった。
自分の行動が、全て裏目に出ていた。
彼女を守るために病院へ連れてきたことが、敵に最高の獲物を与えてしまった。
彼女の回復を喜び、毎日見舞いに通った律儀さが、敵に完璧な犯行の機会を提供してしまった。
「……警察め……」
蒼那の拳が、わなわなと震え始める。
握りしめた指の関節が、白く変色していく。
「俺の……俺の大切な美月に……手を出すなんて……ッ!」
その瞬間、彼の内側で荒れ狂う魔力が、制御の箍を失って溢れ出した。
バチッ! パリンッ!
廊下の天井に設置されていた蛍光灯が、甲高い音を立てて弾け飛んだ。
ガラスの破片が、雨のように床に降り注ぐ。
「きゃああああっ!」
看護師が、短い悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
だが、異変はそれだけでは終わらない。
バリン! バチバチッ! ギャリン!
病院の窓ガラスが、外の街灯が、駐車場の車のヘッドライトが、次々と連鎖するように破裂していく。
蒼真の怒りに共鳴した魔力が、周囲の無機物を無差別に破壊し始めたのだ。
院内が、パニックに陥る。
人々の悲鳴と、警報のけたたましい音が入り混じる。
しかし、その混沌の中心で、蒼真はただ静かに立ち尽くしていた。
彼の瞳から、光が消えていた。
そこにあるのは、全てを焼き尽くす憎悪の炎と、底なしの虚無だけだった。
(待ってろ、美月)
心の中で、彼は誓った。
(今、助けに行く)
そして。
(お前を傷つける奴らは、一人残らず、地獄の底へ叩き落としてやる)
蒼真は、破壊の限りを尽くされた病院の廊下を、ゆっくりと歩き始めた。
その一歩一歩が、警察という巨大な権力組織への、死刑宣告だった。
彼の背後で、割れた窓から吹き込んできた風が、まるで獣の咆哮のように、不気味な音を立てていた。




