第54章
蒼真の見舞い生活が始まった。
それは、終わりの見えない戦いの中に訪れた、奇跡のように穏やかな時間だった。
入院2日目。
蒼真は早朝から、幻影魔法で再び「心配性の従兄弟」の顔になると、小さな保温ポットを手に美月の病室を訪れた。
ポットの中身は、彼が拙い手付きで作った温かいスープだ。
「……おはよう、美月。具合はどうだ?」
「蒼真くん…… おはよう。うん、昨日よりずっと身体が楽になったみたい」
ベッドの上で身体を起こした美月は、まだ顔に幼い疲労の色を残しながらも、嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔だけで、蒼真の心は満たされる。彼は手ずからスープを器によそい、美月に手渡した。
「……おいしい。蒼真くんが作ってくれたの?」
「まあな。栄養つけないと治るもんも治らないだろ」
ぶっきらぼうに言いながらも、その横顔は優しさに満ちている。
「ありがとう……やっぱり、蒼真くんがそばにいてくれると、すごく安心する」
美月は、心からの言葉を紡いだ。
その一言が、蒼真にとっては何よりの報酬だった。
入院3日目。
美月は、医師の許可を得てベッドから起き上がれるまでに回復していた。
点滴も外れ、彼女は蒼真と一緒に、病院の中庭をゆっくりと散歩していた。
季節外れのひまわりが、力なく太陽の方を向いている。
その周りを、名前も知らない小さな蝶が舞っていた。
「蒼真くんが毎日来てくれるから、元気が湧いてくるんだよ……先生が言ってたんだけど、明日には退院できそうだって」
美月は、本当に嬉しそうに笑った。
その屈託のない笑顔は、ここ数日の過酷な出来事が嘘であったかのように、まばゆい光を放っている。
「そうか……良かったな」
蒼真も、心の底から安堵していた。
だが、その意識の片隅では、常に周囲への警戒を怠ってはいなかった。
病院の敷地の内外に、明らかに一般人ではない、気配を殺した男たちが複数配置されているのを、彼の研ぎ澄まされた感覚は初日から捉えていた。
彼らは、蒼真がこの病院に規則正しく現れることを把握し、その行動パターンを監視しているのだ。
だが、蒼真は動かなかった。
ここで下手に動けば、美月を危険に晒すことになる。
今はただ、彼女の回復を最優先するしかなかった。
入院4日目。
回診に来た医師が、正式に退院の許可を出した。
「白石さん、経過は良好ですね。明日、午後の診察で問題がなければ退院して結構ですよ」
その言葉に、二人は顔を見合わせて微笑んだ。
「よかったな」
「うん!」
その日の面会時間も、あっという間に過ぎていく。
「じゃあ、明日の午後、迎えに来るから。それまで、いい子にしてるんだぞ」
蒼真は、子供に言い聞かせるように言うと、美月の頭を優しく撫でた。
「うん、待ってる。絶対に、絶対に待ってるから」
美月は力強く頷いた。
その日の午前中、蒼真はかつての隠れ家である孤児院で、美月を迎える準備を整えていた。
彼の心は、明日からの、二人だけの新しい生活への希望で満ち溢れていた。
その一方で、警視庁の特別捜査本部では、非情な「Xデー」の決定が下されていた。
蒼真の規則正しい見舞いパターンと、退院前日という油断。
それは、彼らが待ち望んでいた、最後の好機だった。
◇◇◇
退院予定日の朝。
病室の窓から差し込む陽光が、部屋の白い壁を暖かく照らしていた。
美月は、すっかり元気を取り戻し、鼻歌交じりで退院の準備をしていた。
小さなボストンバッグに、数日分の着替えと、蒼真が差し入れてくれた本を詰めていく。
(やっと帰れるんだ……)
胸が、期待で高鳴る。
蒼真と一緒に過ごしたこの数日間は、まるで嵐の中の凪のように穏やかだった。
彼がそばにいてくれるだけで、どんな不安も消えていく。
午後になれば、彼が約束通り迎えに来てくれる。そして、また二人だけの生活が始まるのだ。
その時、病室のドアが、コンコン、と控えめにノックされた。
(蒼真くんかな? 少し早いけど……)
美月は嬉しさに胸を弾ませ、ドアへと駆け寄った。
「はーい!」
しかし、ドアを開けた先に立っていたのは、彼女が待ち望んでいた優しい彼の姿ではなかった。
そこにいたのは、四人の屈強な男たちを引き連れた、一人の不気味な男だった。
爬虫類を思わせる冷たい瞳と、口元に浮かんだ陰湿な笑み。
それは公安部外事課、毒島だった。
「……え……? どちら様、でしょうか……?」
美月の心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
本能が、目の前の男たちがもたらす、底知れない悪意を敏感に感じ取っていた。
毒島は、その偽善的な笑みをさらに深くした。
まるで舞台役者のような芝居がかった仕草で、警察手帳を彼女の目の前に突きつける。
「白石美月さんですね。我々は、警視庁の者です」
「け、警察……?」
美月は、恐怖に後ずさった。
「ご心配には及びません。単刀直入に申し上げますと、我々はあなたを『緊急保護』させていただきたく、お迎えに上がりました」
「保護……?」
毒島の口から紡がれる、もっともらしい言葉。
だが、その言葉とは裏腹に、彼の瞳は獲物を見つけた蛇のように、ねっとりと美月を舐め回していた。
「何を言っているんですか……? 私は安全です、午後には退院するんです」
美月は、必死に抵抗の言葉を口にする。
「いいえ、あなたは安全ではありません。ご存じでしょう、あなたが行動を共にしている橘蒼真は、国家の安寧を脅かす、極めて危険なテロリストなのです。我々は、彼の魔手からあなたを保護する義務がある」
「違う! 蒼真くんはテロリストなんかじゃない! 彼は……彼は、私を守ってくれてるんです!」
その叫びも、毒島には届かない。
彼は、心底楽しそうに肩をすくめた。
「おやおや、どうやらあなたは彼に洗脳されているようですな。ますます、保護の必要性が高まった」
彼は、後ろに控えていた制服警官に、顎で合図を送った。
「連れて行け」
二人の警官が、無表情のまま美月に歩み寄る。
「やっ……やめて! 」
美月は必死に抵抗するが、成人男性の力に敵うはずもなかった。
両腕を力ずくで掴まれ、身動きを封じられる。
腕に食い込む指の力に、彼女は顔を歪めた。
「 蒼真くんに……蒼真くんに連絡を……!」
最後の望みをかけて、彼女は叫んだ。
その言葉を聞いた毒島は、これ以上ないほど愉快そうに、喉の奥でクツクツと笑った。
「それはできませんな、お嬢さん」
彼は、美月の耳元に顔を寄せ、囁いた。
その声は、蛇のように冷たく、粘り気を帯びていた。
「なにせ、彼は危険人物ですから。……そして、これからあなたには、我々と一緒に、彼がどれほど危険な男か、よーく『お勉強』していただくことになりますので」
その瞬間、美月は全てを理解した。
これは、保護などではない。蒼真から自分を引き離すための、卑劣な罠なのだ。
「いやああああああッ!」
絶望的な叫びが、がらんとした病室に響き渡る。
しかし、その悲鳴に足を止める者は誰もいない。
彼女は、警官たちに引きずられるように、病室から連れ出されていく。
希望に満ちていたはずの退院の朝は、一瞬にして、底なしの絶望へと突き落とされた。
廊下の窓から差し込む光が、皮肉なほどに明るく、彼女の濡れた頬を照らしていた。
(蒼真くん……助けて……!)
心の中の悲痛な叫びは、誰にも届かない。
彼女の運命は、警察という国家権力の、醜悪な悪意の手に完全に握られてしまったのだった。




