第53章
都市の喧騒を映すガラス張りの巨大な建物――総合病院の待合室は、独特の消毒液の匂いと、大勢の人間が発する微かな熱気に満ちていた。
ひっきりなしに行き交う患者や見舞客、白衣の天使たち。
その雑踏の中、蒼真は、隣に座る美月の肩をそっと支えていた。
今の彼の顔は、本来の蒼真のものではない。
幻影魔法を応用し、彼は自らの容貌を巧みに変化させていた。
黒髪は少し癖のある茶髪に、鋭さを宿していた目元は穏やかな二重瞼に。
顔の輪郭も、僅かに丸みを帯びさせている。
これならば、全国に指名手配されている「橘蒼真」の顔写真と照合されることはないだろう。
彼は今、美月の心配する「従兄弟」という仮初めの役割を演じていた。
しかし、その変装も、彼の内面に渦巻く焦燥感を隠すことはできない。
握りしめた拳には、じっとりと汗が滲む。
この人混みの中に、警察の目が光っていないとは限らない。
常に周囲への警戒を怠らず、神経を極限まで張り詰めさせながら、彼はただ、美月の名前が呼ばれるのを待っていた。
「――白石美月さまー。2番診察室へどうぞー」
スピーカーからの無機質な呼び出し音に、蒼真はびくりと肩を震わせる。
彼はすぐに平静を装い、ぐったりとしている美月を支えて立ち上がらせた。
「行こう、美月」
「……うん」
力なく頷く彼女を連れて、診察室のドアを開ける。
室内は、待合室の喧騒とは打って変わって、静まり返っていた。
壁一面に並んだカルテの棚と、最新の医療機器らしきものが、機能的な冷たさを放っている。
診察用の椅子に座っていたのは、四十代半ばほどの、人の良さそうな顔つきの男性医師だった。
柔和な目元を眼鏡の奥に隠し、疲れたように首を回しながら、彼は二人に視線を向けた。
「こんにちは。どうされましたかな?」
蒼真が付き添いとして、昨日からの美月の症状を簡潔に説明する。
熱、激しい咳、そして全身の倦怠感。医師は神妙な顔つきで耳を傾け、聴診器を手に取った。
「少し、胸の音を聞かせてもらいますね」
美月がおずおずと服の胸元を緩める。
冷たい聴診器が肌に触れ、彼女の身体が小さく震えた。
いくつかの検査が行われる間、蒼真はただ、祈るような気持ちでその様子を見守ることしかできなかった。
この絶対的な力は、病という内なる敵の前では、あまりにも無力だった。
やがて、全ての診察を終えた医師は、カルテにペンを走らせながら、重々しく口を開いた。
「先生、美月の容態は……」
思わず身を乗り出す蒼真に、医師は困ったように眉を下げた。
「命に別状があるわけではありません。ですが……診断結果としては、極度の精神的ストレスを原因とする、自律神経失調症ですね。身体の免疫機能が著しく低下しています」
「自律神経……失調症……」
聞き慣れない病名に、蒼真は言葉を失う。
「最近、何か強いストレスを感じるような出来事はありませんでしたか」
医師の問いに、蒼真の胸が痛む。
原因は、言うまでもなく自分にある。
自分の復讐劇が、彼女をここまで追い詰めてしまったのだ。
「……とにかく、今は安静が第一です。念のため、数日間入院して、ゆっくりと様子を見ることにしましょう」
「にゅう、いん……?」
蒼真が呆然と呟く。
それは、全く想定していなかった事態だった。
「先生、入院しないとダメなんですか? 自宅での療養では……」
「もちろん、それでも構いませんが……これだけ体力が落ちていると、回復が遅れる可能性があります。病院にいれば、何かあってもすぐに対応できますからね。その方があなたも安心でしょう?」
医師の言葉は、正論だった。
だが、蒼真にとって「入院」という言葉は、美月が自分の手の届かない「隔離された状況」に置かれることを意味していた。
それは、あまりにも危険な賭けに思えた。
蒼真が葛藤に顔を歪ませていると、診察台に座っていた美月が、ふわりと微笑んだ。
熱で潤んだ瞳だったが、その光は驚くほど力強い。
「……大丈夫」
「美月……」
「私、入院する。先生の言う通りにするよ。私は大丈夫だから」
その言葉は、蒼真への絶対的な信頼の証だった。
彼女は、自分の身の安全よりも、蒼真がこれ以上無理をすることを恐れているのだ。
その健気な微笑みに、蒼真は全ての迷いを振り払った。
(……そうだ。俺が、俺が美月守るんだ。どんな場所であろうと)
「……分かりました、先生。お願いします」
蒼真は、深く頭を下げた。
手続きは、滞りなく進んだ。
美月は、清潔なペイシェントガウンに着替えさせられ、窓際のベッドが与えられた。
四人部屋だったが、幸い他の患者はおらず、静かな個室のような空間だった。
点滴の針が、美月の細い腕に刺される。
透明な液体が、一滴、また一滴と、彼女の身体へと落ちていく。
その光景を、蒼真はベッドの横に置かれたパイプ椅子に座り、ただ黙って見つめていた。
白いシーツに横たわる美月の顔は、先程よりもずっと安らかに見えた。
緊張の糸が、ようやく解けたのだろう。
「……病院なんて、久しぶりだな」
蒼真がぽつりと言うと、美月はくすりと笑った。
「蒼真くんは、いつも元気そうだもんね」
「まあな。異世界に行ってからは、風邪ひとつひいたことない」
「ふふ……勇者様だもんね」
他愛のない会話。
だが、その一言一言が、ささくれだった蒼真の心を優しく癒していく。
戦闘も、復讐も、警察も、今は遠い世界の出来事のようだった。
蒼真は、シーツの上に出されていた美月の手を、そっと握った。
少し熱っぽい、か細い手。
「大丈夫だ……すぐに良くなる」
「うん……ありがとう、蒼真くん」
美月は、幸せそうに目を細めた。
彼女の指が、お返しとばかりに蒼真の手を弱々しく握り返す。
その温もりが、蒼真にとっての世界の全てだった。
どれくらい、そうしていただろうか。
病室のドアが、ノックと共に静かに開いた。
「失礼します。面会時間、終了のお時間ですので……」
入ってきたのは、きびきびとした印象の女性看護師だった。
白いナースキャップの下で、手早くまとめた髪が揺れている。
彼女は、業務的ながらも丁寧な口調で、蒼真に退室を促した。
「……もう、そんな時間か」
蒼真は名残惜しさを感じながらも、ゆっくりと立ち上がる。
「美月、また明日来るから」
「うん。分かってる。気をつけて帰ってね」
美月が、心配そうに彼を見上げる。
蒼真は、彼女を安心させるように力強く頷くと、看護師に一礼して病室を後にした。
廊下を歩きながら、彼は先程の美月の安らかな寝顔を思い出していた。
(……これで良かったんだ)
病院という場所は、警察の目があるかもしれない危険な場所だ。
だが同時に、今の美月にとって最も安全で、回復に必要な環境でもある。
明日も、明後日も、必ず見舞いに来よう。
彼女が元気を取り戻すまで、毎日顔を見せに来よう。
そう固く心に誓いながら、蒼真は夕暮れの光が差し込む長い廊下を、一人歩いていく。
その背後で、彼と美月を監視する冷たい目が光っていることにも気づかずに。




