第52章
警視庁の一角に設けられた、橘蒼真特別捜査本部の会議室は、澱んだ空気と敗北の色に満ちていた。
蛍光灯の白い光が、集まった男たちの険しい顔を無慈悲に照らし出していた。
報告を終えた現場指揮官の声が、重苦しい沈黙の中に虚しく響く。
「――以上が、SATによる強襲作戦の顛末です。結果は……黒沢隊長以下、投入した隊員二十名、全員が戦闘不能。装備はほぼ全て融解、あるいは破壊され、対象――橘蒼真は、姿を消しました」
会議室の空気が、さらに一度、冷たく沈んだ。
日本の治安維持における最強の実力部隊が、たった一人の少年を相手に全滅させられた。
その信じがたい事実は、ここに集った警察幹部たちのプライドを、粉々に打ち砕くに十分だった。
上座に座る男が、太い指で机を苛立たשげに叩く。
捜査本部長、鷹野征四郎。
元ラガーマンを思わせる屈強な体格と、常に他人を見下すような傲慢な表情が特徴だ。
メディア壊滅事件で警察の無能を世間に晒されたことを、己への侮辱と捉えている彼は、権威主義の塊のような男だった。
「……ふざけるな」
鷹野は、地を這うような低い声で唸った。
「たった一人のガキに、精鋭部隊が全滅だと? 黒沢は何をしていた!」
その怒声に対し、冷静な声が返る。
「報告によれば、対象の能力は我々の想定を遥かに超えている……もはや銃などで対抗できるレベルではない」
声の主は、会議室の最も奥、影の中に座る男――警視総監、峰岸剛三だった。
短く刈り揃えられた白髪交じりの髪と、感情の読めない冷酷な目つきが、彼の非情な性格を物語っている。
部下たちの動揺を気にも留めず、彼はただ、いかにしてこの状況を覆し、自らの権力を誇示するかだけを考えていた。
鷹野が、苦虫を噛み潰したような顔で反論する。
「しかし、このまま手をこまねいていては、警察の威信は地に堕ちる!」
「だからこそだ」
峰岸署長が、冷ややかに言葉を継ぐ。
「通常手段では、奴には勝てん。ならば、別の方法を考えるしかない。……奴を、確実に屈服させるための、な」
峰岸の言葉に、会議室は再び沈黙に支配された。
その時だった。
一人の男が、ねっとりとした笑みを浮かべ、静かに口を開いた。
「――皆様、どうやらお困りのようですな。でしたら、私に良い考えがあります」
その声に、全員の視線が一斉に集まる。
公安部外事課、毒島課長。
爬虫類を思わせる冷たい瞳と、常に口元に浮かんだ陰湿な笑みが、彼のサディスティックな本性を隠そうともしていない。
彼は、弱い者を徹底的にいたぶり、その心が壊れる様を眺めることに、至上の快感を覚える男だった。
毒島は、皆の注目が集まったことに満足したように、ゆっくりと席を立つ。
そして、手に持っていた一枚の写真を、会議用の長机の上を滑らせた。
写真には、清楚な黒髪の美少女が、はにかむように微笑む姿が写っていた。
白石美月。橘蒼真と行動を共にしている、ただ一人の協力者だ。
「……これは?」
鷹野が、訝しげに眉をひそめる。
毒島は、その邪悪な笑みをさらに深くした。
「化け物には、化け物なりの弱点というものがあります。そして、橘蒼真という化け物の唯一にして最大の弱点が――この女です」
彼は、指先で美月の写真をトン、と軽く叩いた。
「報告にもありましたな。奴は、この女に危害が及びそうになった瞬間、激昂したと。奴が人間としての感情を唯一見せる相手……それが、この白石美月なのです」
会議室の空気が、ざわめいた。
幹部たちの目に、下劣な光が灯り始める。
毒島が何を言わんとしているのか、彼らは瞬時に理解したのだ。
毒島は、その反応を楽しむかのように、ゆっくりと続けた。
「作戦は単純明快。まず、この女の身柄を確保します。もちろん、表向きは『重要参考人としての任意同行』、あるいは『テロリストからの緊急保護』という名目で、ですな」
「そして?」
峰岸が、初めて興味を示したように、身を乗り出した。
「そして、この小娘の心を、徹底的にへし折るのです」
毒島の声に、愉悦の色が濃く滲む。
「我々警察署の取調室で、外部との連絡を一切遮断し、心理的に追い詰めます。睡眠も食事も制限し、正常な判断能力を奪い、過去のトラウマでも抉ってやれば、十代の小娘など簡単に壊れます」
その言葉の残酷さに、眉をひそめる者は一人もいない。
彼らにとって、美月は守るべき未成年の少女ではなく、敵を追い詰めるための「道具」でしかなかった。
「完全に心が折れたところで、こう持ちかける。『君が、橘蒼真に投降を呼びかけるんだ。そうすれば、君は助かるし、彼もこれ以上罪を重ねずに済む』と。我々が用意した台本を、涙ながらに奴に伝えさせるのです。愛する女からの悲痛な呼びかけに、あの化け物がどう反応するか……見物ですなァ」
クツクツと、毒島は喉の奥で笑った。
彼の脳裏には、精神的に破壊され、涙と鼻水にまみれて許しを乞う美月の姿が、ありありと浮かんでいた。
鷹野が、満足げに大きく頷いた。
「……面白い。実に面白い計画だ、毒島。奴の心を最も効果的に抉る、最高の策だ」
そして彼は、拳で机を力強く叩きつけ、憎悪に満ちた声で叫んだ。
「そうだ、それでいい! あのガキに思い知らせてやるのだ! 我々、日本の警察に逆らうということが、どういうことかを!」
「ガキ一匹に、警察が舐められてたまるかッ!!」
その叫びは、彼らの本心を代弁していた。
これは、もはや正義のための捜査ではない。
傷つけられた自尊心と、組織の権威を守るための、醜い復讐劇だった。
峰岸が、静かに最終決定を下す。
「……よかろう。その作戦を承認する。毒島課長、貴様に全権を委ねる」
「 お任せください。必ずや、ご期待に応えてみせますとも」
毒島は、深々と頭を下げた。
その顔には、これから始まる「仕事」への期待感で、恍惚とした表情が浮かんでいた。
こうして、一人の無力な少女を犠牲にする、非道な作戦が満場一致で決定された。
会議室の机の上に放置された美月の写真は、男たちの欲望と悪意に満ちた視線に晒されながら、ただ静かに微笑み続けていた。




