第51章
SATとの戦闘から数時間後。
都市の喧騒が嘘のような、静寂に包まれた郊外に二人の姿はあった。
錆びついた鉄の門扉には、「ひだまりの家」という、色褪せたプレートが掲げられている。
かつては子供たちの笑い声が絶えなかったであろうその場所は、今は主を失い、時が止まったかのようにひっそりと佇んでいた。
蒼真は、隣を歩く美月の横顔を盗み見る。
彼女の透き通るように白い肌は、マスコミの執拗な攻撃と心労のせいか、さらに青白さを増しているように見えた。
それでも、この思い出の場所に戻ってきたことに、彼女の表情には微かな安堵の色が浮かんでいる。
軋む門を押し開き、雑草がまばらに生い茂る庭を抜ける。
古びた木造の建物は、壁の塗装がところどころ剥がれ落ち、雨風に晒された跡が生々しい。
だが、その佇まいは、二人にとって他のどんな場所よりも心安らぐものだった。
蒼真は、鍵のかかっていない玄関のドアノブに手をかける。
ギィ、と湿った音を立てて扉が開くと、懐かしい匂いが二人を迎えた。
陽の光と、古い木材と、子供たちが使っていたクレヨンの残り香が混じり合ったような、優しくて少しだけ切ない香り。
「……変わらないね、ここの匂い」
美月がぽつりと言った。
その声は、朝の戦闘の緊張から解放されたせいか、少しだけ震えている。
「ああ」
蒼真は短く応え、彼女の手をそっと引いた。
冷たくなったその指先を、自分の体温で温めるように、しっかりと握りしめる。
がらんとしたホールには、壁際に並べられた小さな下駄箱がそのまま残されていた。
いくつかの扉には、子供たちが描いたであろう拙い似顔絵のシールが貼られている。
その光景に、胸の奥がきゅっと締め付けられるのを蒼真は感じた。
美月は、ある一点を見つめて足を止める。
蒼真がその視線の先を追うと、そこは彼女たちが使っていたプレイルームだった。
床には、陽の光が差し込む窓から入った埃が、きらきらと舞っている。
壁には、模造紙に描かれた大きな虹の絵。
その下には、子供たちの小さな手形がいくつも押されていた。
「……心愛ちゃんたち、元気にしてるかな」
美月が、ガラス玉のように綺麗な瞳を潤ませて呟いた。
彼女の脳裏には、無邪気な笑顔で「お兄ちゃん、お姉ちゃん」と慕ってくれた、桜井心愛の姿が浮かんでいるのだろう。
異世界で失った妹のような存在、ルナの面影を宿した少女。
「……また会えるさ。きっと」
蒼真は、確信のない言葉を口にした。
それが気休めにしかならないと分かっていても、そう言うしかなかった。
今の自分たちが、彼女たちに会うことは、彼女たちを危険に晒すことと同義なのだから。
二人は言葉少なに、院内を歩いた。
食堂、子供部屋、風呂場。
どこもかしこも、人の気配が消えて久しいことを物語っていた。
しかし、そこには確かに、院長先生の優しさや、子供たちの賑やかな日常の記憶が、空気の中に溶け込んでいるようだった。
やがて、二人は一番奥にある院長室の前にたどり着いた。
院長先生が、いつも優しい笑顔で二人を迎えてくれた部屋。
蒼真がドアを開けると、そこは以前とほとんど変わらない様子だった。
使い込まれた大きな木の机。
壁一面に並んだ、子供たちの成長記録が収められたアルバム。
そして、窓際には、院長先生が大切に育てていたポトスの鉢植えが、葉を黄色く変えながらも、健気に生き残っていた。
「……院長先生の部屋だ」
美月が、懐かしそうに部屋を見回す。
「少し休もう」
蒼真は美月の肩を抱き、部屋の隅にあった古びたソファへと促した。
ソファは、人が座るとギシッと悲鳴のような音を立てたが、二人分の重みをしっかりと受け止めてくれる。
隣に座った蒼真の肩に、美月がこてん、と頭を預けてきた。
彼女の体重が、心地よい重みとなって伝わってくる。
「……なんだか、全部夢みたい」
「夢?」
「うん。蒼真くんが異世界で勇者様だったことも、悪い人たちと戦ってることも……。こうしていると、昔に戻ったみたいで」
彼女の言葉に、蒼真は何も答えられなかった。
昔には、もう戻れない。
自分は、この少女を、終わりのない戦いの渦に巻き込んでしまったのだ。
「ここは……私たちにとって、本当に大切な場所だね」
美月はそう言うと、おもむろに身体の向きを変え、蒼真の膝に頭を乗せた。
「……少しだけ、こうさせて。蒼真くんのそばにいると、一番安心するから」
懇願するような上目遣いに、蒼真は抵抗できなかった。
彼はそっと、彼女の額にかかった前髪を指で払う。
その指先に触れた肌は、驚くほど熱かった。
「……! おい、すごい熱だぞ」
「え……? そうかな……なんだか、身体がふわふわして……」
美月の声には力がなく、その頬は不健康なほど赤く上気している。
呼吸も、心なしか浅く速い。
(まさか……)
蒼真の胸を、嫌な予感がよぎる。
マスコミに追い回され、精神的に極限まで追い詰められていた彼女。
そのストレスが、ついに身体を蝕み始めたのかもしれない。
「美月、しっかりしろ」
蒼真が声をかけると、美月は虚ろな目で彼を見上げた。
「ごめんね、蒼真くん……なんだか、頭が……」
その時だった。
「ケホッ、ゴホッ……!」
美月が、突然激しく咳き込み始めた。
それは、ただの風邪の咳ではない。
身体の芯から絞り出すような、苦しげで乾いた咳だった。
彼女は小さな背中を丸め、何度も何度も咳き込む。
その度に、華奢な身体がびくびくと震えた。
「美月!」
蒼真は慌てて彼女の上体を起こし、その背中を優しくさすった。
手のひらに伝わる震えと、異常なほどの熱。
これは、ただの疲労ではない。
明らかに、危険な兆候だった。
ようやく咳が収まった時、美月の額には脂汗がびっしりと浮かび、その瞳は熱で潤んでいた。
彼女はぐったりと蒼真の胸に身体を預け、か細い息を繰り返す。
「はぁ……はぁ……ごめん、なさい……」
「俺のせいだ……俺がお前を、こんな目に……」
蒼真は、奥歯をギリリと噛み締めた。
力があれば、彼女を守れると思っていた。
異世界で得たこの圧倒的な魔力と戦闘技術があれば、どんな敵からも彼女を護り通せると。
だが、現実はどうだ。
物理的な脅威は退けられても、目に見えない悪意やストレスが、こうして彼女の生命を内側から蝕んでいく。
自分の力は、結局のところ万能ではないのだ。
このままでは、彼女は衰弱していく一方だ。
この孤児院は、精神的な安息の地にはなっても、医療設備があるわけではない。
(……どうする? どうすれば、美月を救える?)
選択肢は、一つしかなかった。
危険だと分かっている。
警察が、この国の全てが、自分たちを狙っている。それでも。
「……美月」
蒼真は、覚悟を決めた声で言った。
「病院に行こう。このままじゃ本当に危険だ」
その言葉に、美月は弱々しく首を横に振った。
「でも……そしたら、蒼真くんが……」
彼女は、自分のことよりも蒼真の身を案じている。
この期に及んでも、この優しい少女は、自分のことばかりを考えているのだ。
その健気さが、蒼真の決意をさらに固くさせた。
彼は、美月の潤んだ瞳をまっすぐに見つめ、その冷たい手を両手で包み込んだ。
「俺がついてる。何があっても、俺がお前を絶対に守る」
その声には、一片の迷いもなかった。
「だから、大丈夫だ」
それは、自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
この決断が、二人をさらなる地獄へと誘う罠かもしれない。
それでも、彼は進むしかない。
愛する少女の命を救うためなら、どんな危険であろうと、その身を投じる覚悟はできていた。




