第50章
夜の闇が白み始め、アスファルトの巨獣である都市が、まだ浅い眠りの中にいる午前五時。
カーテンの隙間から差し込む街灯の最後の残光が、部屋の空気を銀色に染めていた。
ベッドの上で、蒼真は静かに息をしていた。
その腕の中には、この世界で唯一、彼が守ると誓った存在――美月が、安らかな寝息を立てている。
マスコミの執拗な追跡に心をすり減らした彼女は、ようやく深い眠りを得たようだった。
長い睫毛が縁取る瞼は固く閉じられ、時折、幸せそうな夢でも見ているのか、桜色の唇が微かに綻ぶ。
その無防備な寝顔を見ていると、蒼真の胸の奥で、異世界で得た仲間たち――アルフレッドやエリーナ、そしてルナと過ごした日々の温もりが蘇る。
この温かさだけは、もう二度と失うわけにはいかなかった。
彼女の柔らかな髪から漂う、陽だまりのような甘い香り。
腕に伝わる確かな体温。それら全てが、復讐に染まった彼の心を、人間としての在り処へと引き戻してくれる。
この六畳一間の安アパートが、今は世界で最も安全な城のはずだった。
だが、その静寂は唐突に引き裂かれた。
ピリッ、と。皮膚を刺すような、明確な敵意。
それは音でも光でもない。
生物が生物に向ける純粋な害意の波動――異世界での絶え間ない戦闘で研ぎ澄まされた蒼真の第六感が、それを殺気として捉えていた。
蒼真は美月を起こさないよう、細心の注意を払って腕を抜く。
彼女の身体が冷えないように、そっと毛布を首元まで引き上げた。
その一連の動作に、一切の淀みはない。
ついさっきまで彼女の寝顔に安らぎを感じていた心は、瞬時に氷のような冷静さを取り戻していた。
窓の外に視線を送る。
まだ明けきらぬ空の下、向かいのビルの屋上に、闇よりも濃い影が幾つも蠢いているのが見えた。
双眼鏡のレンズが、朝の湿った光を鈍く反射している。
相手は彼を殺す、あるいは無力化するために、最適化された動きを見せている。
この部屋で戦闘になれば、美月が巻き込まれる。
それだけは絶対に避けなければならない。
蒼真は床に置いてあった刀――田所組長から譲り受けた業物を、音もなく手に取る。
そして、魔力を身体に巡らせ、存在感を極限まで希薄にした。
影が床を滑るように、彼はベランダへと移動する。
「……美月、少しだけ待っててくれ。すぐに終わらせるから」
眠る彼女にだけ聞こえるような声で囁くと、彼は手すりを軽々と飛び越え、アパートの壁を蹴った。
重力など存在しないかのように、身体が宙を舞う。
三階建てのアパートの屋根に、蒼真は猫のようなしなやかさで着地した。
冷たい早朝の風が、彼の黒髪を揺らす。
眼下には、彼が今しがた降り立った屋根を、二十名近い黒装束の男たちが包囲していた。
彼らは全員、頭には防弾ヘルメットと暗視ゴーグル、身体には漆黒の戦闘服とプレートキャリアを装備し、手にはサブマシンガンを構えている。
一切の無駄口を叩かず、統率の取れた動きで彼を包囲する様は、まさに精鋭部隊の名に相応しい。
その中心に、一際屈強な体格の男が立っていた。
他の隊員とは明らかに違う、歴戦の猛者だけが纏う威圧感を放っている。
筋骨隆々とした身体、顔に刻まれた生々しい傷跡、そして全てを見透かすような鋭い眼光。
彼こそが、この部隊の指揮官に違いない。
黒沢鉄心隊長は、蒼真が突如として屋上に現れたことに、一瞬だけ驚愕に目を見開いた。
彼らの計画では、窓を突き破って室内に突入し、寝込みを襲う手筈だったのだろう。
だが、彼はすぐに冷静さを取り戻した。
プロフェッショナルとしての冷徹さが、驚きという人間的な感情を押し殺す。
彼は無言のまま右手を挙げ、そして、振り下ろした。
それが、攻撃開始の合図だった。
「撃てッ!」
号令と共に、銃口が一斉に火を吹いた。
タタタタタッ!
耳をつんざくような銃声の連続。
大気を切り裂き、オレンジ色の閃光を伴って、鉛の弾丸が蒼真に向かって殺到する。
常人ならば一瞬でミンチにされるであろう、死の弾幕。
だが、その全てが、蒼真の身体から半径二メートルほどの空間で、不可視の壁に阻まれて停止した。
キン、キン、と軽い音を立て、変形した弾丸が力なく屋上のコンクリートに落ちていく。
「なっ……!?」
隊員の一人が、驚愕の声を漏らした。
蒼真の周囲には、常に魔力による「絶対防御」の障壁が展開されている。
これは異世界での戦闘経験から編み出した、彼の生存戦略の根幹だ。
物理的な攻撃は、その質量や速度に関わらず、この障壁に触れた瞬間、運動エネルギーを強制的にゼロにされる。
銃弾が効かないと悟った黒沢隊長が、即座に次の指示を出す。
「第二波! グレネード!」
数人の隊員が、銃身の下に取り付けられたグレネードランチャーを構える。
だが、彼らが引き金を引くよりも早く、蒼真は右手を軽く振るった。
瞬間、屋上を暴風が吹き荒れた。
「ぐわっ!」
「うおっ!?」
二十名近い屈強な男たちの身体が、まるで木の葉のように宙に舞い上がる。
訓練された彼らも、自然現象そのものを捻じ曲げる魔法の前には、赤子同然だった。
平衡感覚を失い、空中で無様に手足をばたつかせる。
蒼真は追撃の手を緩めない。
今度は左の指を鳴らした。
宙に舞う隊員たちの手から、銃や装備がひとりでに離れ、一点に集められる。
そして、そこに灼熱の火球が出現した。
ゴウッ、という轟音と共に、鋼鉄でできた最新鋭の兵器群が、まるで飴細工のように融解していく。
真っ赤に焼けた鉄が、どろりとした液体となって地面に滴り落ち、ジュウジュウと蒸気を上げた。
「ば、馬鹿な……武器が……」
風の魔法から解放され、屋上に叩きつけられた隊員たちが、呻きながらも信じがたい光景に言葉を失っている。
蒼真はゆっくりと彼らに歩み寄る。
右手には、鞘から抜き放った漆黒の刀。
その刀身に自らの魔力を流し込むと、刀はまるで生きているかのように鈍い光を放ち始めた。
その時、彼の背筋を再び鋭い殺気が貫いた。
数百メートル離れたビルの屋上から、大口径の対物ライフルが彼を狙っている。
スコープの反射光が一瞬きらめいた。
ズドンッ!
先程までのサブマシンガンとは比較にならない、腹に響く重低音。
音速を遥かに超える弾丸が、蒼真の眉間めがけて飛んでくる。
だが、それも結果は同じだった。
パキン、と乾いた音。
蒼真の目の前で、障壁に激突した徹甲弾が、粉々に砕け散った。
「……無駄だ」
彼は刀を構え、地を蹴った。
次の瞬間、蒼真の姿は隊員たちの眼前から消えていた。
「消えた!?」
「どこだ!」
彼らが混乱する中、蒼真は神速で隊員たちの間を駆け抜ける。
刀の峰を使い、急所を的確に打ち据えていく。
ゴッ、という鈍い音と共に、屈強なSAT隊員たちが次々と意識を失い、崩れ落ちていった。
彼らの目には、蒼真の動きは捉えることすらできていないだろう。
わずか数十秒。立っているのは、蒼真と、指揮官である黒沢隊長だけになっていた。
「……化け物め……」
黒沢隊長は顔を絶望に歪ませながら、それでも戦意を失っていなかった。
彼は懐から大型のコンバットナイフを引き抜き、低い姿勢で構える。
「貴様のような存在が……この国にいていいはずがないッ!」
彼は最後の力を振り絞り、雄叫びと共に蒼真に斬りかかってきた。
その動きは、常人を超えた鋭さと速さを誇っていた。
さすがはSATの隊長、その技量は本物だった。
だが。
「――遅い」
蒼真は呟くと同時に、天にかざした指先に、紫電を収束させた。
バチチッ、と空気が焦げる音。
彼の指先から放たれた一条の雷が、黒沢隊長の身体を撃ち抜いた。
彼は悲鳴を上げる間もなく、全身の筋肉を痙攣させ、白目を剥いてその場に倒れ伏した。
……静寂が、戻る。
屋上には、意識を失った二十名のSAT隊員と、融解した兵器の残骸だけが転がっていた。
蒼真は刀を鞘に納め、静かに息を吐いた。
安堵はなかった。
むしろ、胸の中に冷たいものが広がっていく。
彼らは本気だ。国家の威信にかけて、蒼真を排除しようとしている。
蒼真はアパートの自室を見下ろした。
カーテンが揺れる窓の向こうで、彼女はまだ眠っているだろうか。
あの平和な空間は、もう安全ではない。
(移動しなければ。もっと、誰にも見つからない場所へ)
警察の、そしてこの世界の悪意から、彼女を完全に隔離できる場所へ。
彼の心は、次なる戦いに向けて、より深く、より冷たい覚悟を決めていた。
復讐の連鎖は、まだ始まったばかりなのだ。
蒼真は屋上から飛び降り、再び影となって自室のベランダへと舞い戻った。
すべてを終わらせ、美月との本当の平穏を手に入れるために。
彼は、あらゆる敵を排除する。
たとえそれが、この国の全ての権力であったとしても。




