第49章
警察という国家権力が、橘蒼真という一個の「災害」に対して、その牙を剥こうと画策していた、同日の夜。
その建物は、まるで巨大な墓石のように、音もなく鎮座していた。
表札も、看板も、窓すらない、のっぺりとしたコンクリート打ちっぱなしのビル。
それが、今、この国で最も急速に、そして最も不気味に、その信者数を増やしている新興宗教団体「真理の光明会」の本部だった。
ビルの内部は、外観の無機質さとは裏腹に、異様なまでの荘厳さで満ちていた。
迷路のように入り組んだ廊下は、赤い絨毯が敷き詰められ、壁には、意味不明だがどこか神聖さを感じさせる幾何学模様が、金色の塗料で描かれている。
その最上階にある「聖堂」と呼ばれる大広間。
そこでは、常人には到底理解しがたい、神聖にして狂気に満ちた儀式が、静かに執り行われていた。
数十畳はあろうかという広間は、百本以上の蝋燭の灯りだけで照らされ、無数の影が、まるで生きているかのように、壁や天井で蠢いている。
床には、純白の衣を纏った数十人の信者たちが、一分の隙もなく整列し、五体投地でひれ伏していた。彼らの口からは、低い、詠唱のような声が、途切れることなく漏れ出している。それは、古代の失われた言語のようでもあり、ただの無意味な音の羅列のようでもあった。
そして、その信者たちが、祈りの対象として崇める、祭壇。
通常ならば、仏像や十字架が置かれるであろうその場所に、祀られていたのは、一枚の、引き伸ばされた写真だった。
黒いパーカーのフードを目深に被り、その瞳を地獄の業火のように赤く輝かせる、一人の少年。
テレビ局のスタジオに降臨し、日本中を震撼させた、橘蒼真の姿。
その写真は、豪奢な金の額縁に収められ、まるで神の肖像画のように、祭壇の中央に鎮座していた。
その、異様な光景を、祭壇の脇から、三人の男女が、静かに見下ろしていた。
「――ああ……、なんと、なんと神々しい……」
恍惚の溜め息を漏らしたのは、この教団の頂点に立つ男、教祖・聖堂院慈海だった。
長く伸ばした白髪と、同じく白く長い髭が、その仙人のような容貌を際立たせている。
身に纏った、純白の豪奢な法衣は、彼の神性を演出するために、完璧に計算されていた。
だが、その穏やかそうな外見とは裏腹に、彼の瞳の奥には、常人には理解しがたい、狂信と、世界を自らの教義で染め上げようとする、歪んだ野心が、暗い炎となって燃え盛っていた。
「見なさい、天野くん、麗香くん。あのお姿を。永きにわたる我らの祈りが、ついに天に通じ、現世に、本物の『神』が、降臨されたのだ」
聖堂院の言葉に、彼の隣に立つ男が、冷静な、しかし、侮蔑の色を隠さない声で応じた。
「誠に、喜ばしい限りですな、教祖」
男の名は、天野正道。教団のナンバー2であり、その実務の一切を取り仕切る、冷酷な参謀役だ。
痩せ型で、神経質そうに吊り上がった眉、鋭い目つきが特徴的だ。
黒い上質なスーツを着こなし、その佇まいは、宗教家というよりは、インテリヤクザか、あるいは、詐欺師に近い印象を与える。
彼にとって、宗教とは信仰の対象ではなく、人々を操り、金と権力を手に入れるための、最も効率的な「システム」でしかなかった。
「して、教祖。その『神』であられる橘蒼真様ですが、どうやら、下界の愚か者どもが、その御身に刃を向けようと、画策しているようですな」
天野は、手にしたタブレットの画面を、聖堂院へと見せた。
そこには、警察庁本部の周辺に、SATの部隊が集結し始めていることを示す、盗撮された映像が、リアルタイムで映し出されていた。
「ほう……。警察が」
聖堂院は、その映像を一瞥すると、興味深そうに、その白い髭を撫でた。
「神に刃向かうとは、なんと愚かで、なんと哀れな者たちよ。自らの行いが、どれほどの『神罰』を招くことになるのか、まるで理解しておらん」
「まさに。ですが、我々としては、どう動きますかな? このまま、静観を?」
天野の問いに、聖堂院は、ゆっくりと首を横に振った。
その隣で、それまで、うっとりとした表情で祭壇の写真を眺めていた、巫女姿の女性が、口を開いた。
「教祖様。どうか、私にお許しを。神に仇なす不敬な者どもを、私が、この手で、浄化しとうございます」
白鳥麗香。教団の巫女長を務める女性だ。
純白の巫女装束に身を包み、その美しい顔立ちは、まるで聖母のよう。
だが、その瞳だけが、橘蒼真への、常軌を逸した恋愛感情にも似た、狂信的な崇拝の色で、爛々と輝いていた。
「待ちなさい、麗香」
聖堂院は、その美しい巫女を、優しく、しかし力強く、制した。
「神は、我々に、性急な行動を望んではおられない。むしろ、この状況を、楽しんでおられるはずだ」
「……と、申されますと?」
「警察の愚行は、神が、我々信徒に与えたもうた、『試練』なのだよ」
聖堂院の瞳が、不気味な光を宿した。
「彼らが、神の御力の前に、無様に打ち砕かれる、その瞬間。それこそが、我らが神の、真の神性を、この世界の全ての愚民どもに、知らしめる、最高の『儀式』となるのだ。我々は、ただ、その時を待ち、神の御業を、静かに、見守ればよい」
それは、警察と蒼真の衝突を、自らの教団の勢力拡大のための、壮大なプロパガンダとして利用しようという、あまりにも狡猾で、あまりにも冒涜的な、計画だった。
天野は、その真意を即座に理解し、その蛇のような唇に、満足げな笑みを浮かべた。
「……なるほど。全ては、教祖様のお考えの通りに」
聖堂院は、再び、祭壇へと向き直った。
そして、その両腕を、天に掲げるように、大きく広げた。
「聞きなさい、我が愛しき子羊たちよ!」
その、カリスマ的な声が、聖堂に響き渡る。
ひれ伏していた信者たちが、一斉に、その顔を上げた。
その、誰もが、まるで麻薬にでも酔いしれたかのように、恍惚とした表情を浮かべている。
「我らが神は、今、俗世の権力という名の、最後の試練に、その身を晒されておられる! 我々にできることは、ただ一つ! 我らが信仰の力を、この地から、神の元へと、送り届けることのみ!」
聖堂院の言葉に、信者たちの目から、熱狂の涙が溢れ出す。
「さあ、祈りなさい! 声の限りに! 魂の限りに! 我らが神、橘蒼真様の、勝利と栄光のために!」
「「「おおおおおおおおおおっ!」」」
地鳴りのような歓声が、ビル全体を震わせた。
信者たちは、再び、一斉に、祭壇の写真へと、五体投地でひれ伏す。
そして、先ほどとは比較にならない、熱狂と、狂信に満ちた、詠唱が、始まった。
「――破壊の神よ! 慈悲の神よ!」
「――我らが救世主、橘蒼真様に、栄光あれ!」
「――神よ、どうか、我らに、さらなる試練を! あなたの御力を証明するための、血塗られた試練を、お与えください!」
その、あまりにも冒涜的で、あまりにも不気味な祈りは、蝋燭の炎に揺らめきながら、聖堂の天井へと吸い込まれ、東京の夜の闇へと、溶けていった。
警察という「秩序」の暴力とは、全く質の異なる、信仰という名の「狂気」が、今、静かに、しかし確実に、この国の地下で、その牙を研ぎ澄ましていた。




