第48章
霞が関にそびえ立つ、警察組織の心臓部、警察庁本部。
その会議室では、国家の存亡を左右するかのような、重苦しい沈黙に支配されていた。
壁一面を占める巨大なスクリーンには、一枚の、何の変哲もない中学生の写真が、無機質に映し出されている。
だが、その写真の隣に次々と映し出される映像は、この国の誰もが、悪夢として記憶に刻み込んだ、地獄の光景だった。
半壊し、黒煙を上げる週刊誌のビル。
巨大な機械がスクラップと化した、新聞社の工場。
そして、まるで神の怒りに触れたかのように崩落した、テレビ局の摩天楼。
「――以上が、都内で発生した、一連のテロ事件の概要です」
報告を終えた分析官が席に着くと、室内の空気は、さらに重く、冷たくなった。
沈黙を破ったのは、テーブルの上座に座る、一人の男だった。
今回の「特別捜査本部」の本部長に任命された、鷹野管理官。
鋭く刈り込まれた白髪、鷲のような鋭い鉤鼻、そして、一切の感情を映さない、氷のような瞳が特徴的だ。
警察官僚としてのキャリアを、冷徹な判断力と、時に非情とさえ言われる決断力で駆け上がってきた、カミソリのような男だった。
「……橘蒼真、十五歳。都内の中学に通う、ごく普通の少年。だが、その正体は、観測史上、国内最大級の脅威をもたらす、正体不明の『災害』だ」
鷹野の声は、まるで鋼鉄を擦り合わせたかのように、冷たく、硬質だった。
「メディア三社を、物理的に、そして組織的に、完全に沈黙させた。その手口は、我々の科学的知見では、説明が不可能。爆発物も、銃火器も使用された形跡はない。まるで……」
「まるで、魔法でも使っているようだ、と?」
鷹野の言葉を継いだのは、特殊急襲部隊、通称SATの部隊長を務める、黒沢だった。
特殊部隊員として、極限まで鍛え上げられた、鋼のような肉体。
短く刈り込んだ髪の下で、数々の修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ、絶対的な自信に満ちた瞳が、スクリーンを睨みつけている。
彼は、この国の物理的な「最強」を体現する存在だった。
「現場の刑事たちの、支離滅裂な報告書は読ませていただきました。『風で人が切断された』『地面が一瞬で凍りついた』……。正直、集団ヒステリーとしか思えませんな」
黒沢の口調には、現場の混乱を嘲笑うかのような、傲慢な響きがあった。
「どのようなトリックを使っているかは知らんが、相手は、たかが十五のガキだ。我々プロが、そんな幻術に惑わされることはない。突入し、確保する。それだけだ」
その、あまりにも楽観的な意見に、テーブルの隅で、それまで黙って腕を組んでいた男が、ふ、と鼻で笑った。
公安部外事課、通称「ゼロ」に所属する、毒島課長。
常に、何を考えているか分からない、蛇のような、粘つく笑みを浮かべている。
彼の任務は、この国の「裏側」に潜む、常識では測れない脅威を、秘密裏に処理することだった。
「黒沢さん、あんたは、まだ分かっていないらしい。今回の『災害』は、あんたたちのオモチャ……アサルトライフルやスタングレネードで、どうにかなるレベルじゃない。あれは、我々がこれまで対峙してきた、どんなテロリストとも、次元が違う」
「何が言いたい、毒島」
黒沢の眉が、ぴくりと動く。
「奴は、『ルール』の外側にいる存在だ、と言っているんだ。物理法則、因果律、そういった、我々が拠り所にしてきた世界の『ルール』が、奴の前では通用しない。我々は、神、あるいは、悪魔を相手にしているのかもしれんのだよ」
「……馬鹿馬鹿しい」
黒沢は、吐き捨てるように言った。
その時、それまで、全ての報告を、目を閉じたまま、静かに聞いていた男が、ゆっくりと、その重い瞼を開いた。
警視総監、峰岸。
この国の警察組織、二十六万人の頂点に立つ、絶対的な権力者。
白髪交じりの髪を、一分の隙もなく後ろになでつけ、その顔に刻まれた深い皺は、彼が背負ってきた、計り知れない重圧を物語っていた。
だが、その瞳は、老いを感じさせない、鷹のような鋭い光を宿している。
「……諸君の意見は、よく分かった」
峰岸の声は、静かだった。
だが、その一言で、会議室の空気が、さらに張り詰める。
彼の言葉は、この組織の、絶対的な決定だった。
「鷹野くん。君の言う通り、橘蒼真は、もはや一個人の犯罪者ではない。国家の存立を揺るがしかねない『脅威』と認定する」
「はっ」
「黒沢くん。君の部隊の能力を、私は信じている。だが、毒島くんの言う通り、今回は、常識が通用しない相手だということも、肝に銘じておきたまえ。油断は、死に直結する」
「……はい」
黒沢が、悔しそうに、しかし、命令には逆らえず、頭を下げた。
そして、峰岸は、その冷徹な瞳で、会議室にいる全員を見渡すと、最後の、そして、最も重要な、命令を下した。
「――これより、橘蒼真の確保を、最優先事項とする」
その声には、一切の、感情の揺らぎがなかった。
「彼の人権は、一時的に、これを凍結する。彼を、人間として扱う必要はない。一個の、破壊能力を持つ『物体』として、処理しろ」
会議室の空気が、凍りついた。
それは、法治国家において、決して、口にされてはならない、禁断の言葉。
だが、誰一人として、異を唱える者はいなかった。
「そして、黒沢くん」
「はっ」
「SATに出動準備を」
峰岸は、最後に、こう締めくくった。
その言葉は、この国の「正義」が、この日、完全に、道を誤ったことを、明確に示していた。
「――何としても、奴を捕えろ。手段は、選ぶな」
会議室の男たちの顔に、冷酷な、しかし、職務に忠実な、決意の色が浮かぶ。
彼らは、自分たちが、国を守る「正義」の執行者であると、信じて疑っていなかった。




