第47章
メディアという名の巨大な獣たちとの戦争が、一方的な蹂躙という形で幕を閉じてから、一週間が過ぎた。
世界は、橘蒼真という一個人の、常識を超えた力によって刻まれた巨大な傷跡を前に、呆然と沈黙していた。
まるで、巨大すぎる災害の後、人々がただ立ち尽くすことしかできないように。
朝。
古い木造アパートの一室に、柔らかな光が差し込んでいた。
レースのカーテン越しに届けられる太陽の光は、空気中を舞う埃の粒子を、キラキラと金色に輝かせている。
窓の外からは、遠くで鳴く鳥の声と、街が静かに目覚めていく微かな生活音だけが聞こえていた。
蒼真は、ベッドの上で上半身を起こし、その穏やかな光景を、ただ静かに眺めていた。
(……やっと、静かになった)
蒼真は、深く息を吐いた。
ここ一週間、彼らを追い回す者は、一人もいなかった。
あれだけ執拗だったメディアの影は、完全に消え去った。
彼が望んだ、たった一つのこと。
美月と二人きりの、誰にも邪魔されない、穏やかな世界。
彼は、それを自らの力で、手に入れたのだ。
体内で、かつては荒れ狂う奔流のようだった魔力が、今は、静かな湖面のように、穏やかに凪いでいる。
それは、隣のベッドで、安らかな寝息を立てている少女の存在が、彼の力の全てを、優しく鎮めているからだった。
「ん……」
その時、隣のベッドで、シーツが微かに身じろぎした。
ゆっくりと、長い睫毛が震え、薄い瞼が開かれる。
現れたのは、朝の光を吸い込んで、透き通るように輝く、優しい色の瞳だった。
「……おはよう、蒼真くん」
白石美月が、まだ夢の続きにいるような、柔らかな声で微笑んだ。
彼女は、蒼真の少し大きすぎるTシャツをパジャマ代わりに着ており、その華奢な身体を、さらに儚げに見せている。
メディアによって刻まれた心の傷は、まだ完全には癒えていない。
時折、その瞳には、怯えの色が影を落とす。
だが、目を覚まして、最初に蒼真の姿を認めた瞬間の、その花が綻ぶような笑顔は、この部屋にある、どんな光よりも、彼の世界を明るく照らした。
「ああ。おはよう、美月」
蒼真も、自然と、その口元に笑みを浮かべていた。
二人は、小さなダイニングテーブルで、向かい合って朝食をとっていた。
メニューは、こんがりと焼いたトーストと、目玉焼き、そして、温かいミルクティー。
美月が淹れてくれるミルクティーは、絶妙な甘さで、蒼真の荒んだ心を、内側から優しく溶かしていく。
テーブルの隅に置かれた小さなテレビからは、アナウンサーの、どこか他人行儀な声が流れていた。
『……一連のメディア機関襲撃事件から一週間。半壊した東都テレビ本社ビル前には、今も多くの野次馬が集まっており……』
画面には、無残な姿を晒す、湾岸の摩天楼が映し出されている。
自分が行った、圧倒的な破壊の爪痕。
だが、蒼真は、それを、まるで遠い国のニュースでも見るかのように、何の感情もなく眺めていた。
「……もう、追いかけてくる人は、いないんだよね?」
美月が、不安そうに、カップを持つ手を止めて、蒼真の顔を見上げた。
その瞳の奥に、まだ、あの日の恐怖が、澱のように沈んでいる。
「ああ。もういない」
蒼真は、きっぱりと頷いた。
「俺が、終わらせたんだ。もう誰も、お前を傷つけたりしない」
その、絶対的な自信に満ちた言葉に、美月の表情が、少しだけ和らぐ。
彼女は、カップを置くと、テーブル越しに、そっと手を伸ばしてきた。
蒼真は、その、ためらうような小さな手を、優しく、しかし力強く、握り返した。
その瞬間、だった。
蒼真の体内で、わずかに残っていた魔力のさざ波が、ぴたり、と完全に静止した。
まるで、荒れ狂う海が、月の引力に導かれるように、鏡のような凪を取り戻す。
美月の温もり。彼女の存在そのものが、彼の力の暴走を抑える、唯一無二の制御システムなのだ。
この手さえあれば、この温もりさえあれば、俺は、俺でいられる。
「……ねえ、蒼真くん」
「ん?」
「私たち……これからも、ずっと、一緒にいられるよね?」
その声は、微かに震えていた。
やっと手に入れた平穏。
だが、その平穏が、あまりにも脆く、儚いものであることを、彼女の心は、本能的に感じ取っていたのかもしれない。
「当たり前だろ」
蒼真は、握る手に、さらに力を込めた。
「俺は、お前と一緒にいる、誰にも邪魔させない。何があっても、俺が、お前を絶対に守る」
それは、誓いだった。
世界そのものを敵に回してでも、たった一つの宝物を守り抜くという誓い。
その、力強く、そして、どこか悲壮な決意に、美月の瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
それは、恐怖の涙ではなかった。
安堵と、そして、蒼真への深い愛情から生まれた、温かい涙だった。
「……うん。信じてる」
美月は、涙を拭いもせず、心の底から、微笑んだ。
その笑顔を見て、蒼真の世界は、完全に満たされた。
これ以上、何もいらない。
この瞬間が、永遠に続けばいい。
朝の光が、手を握り合う二人を、優しく包み込んでいる。
嵐が過ぎ去った後の、完璧な、束の間の平穏。
二人は、その心地よさの中に、ただ、身を委ねていた。
◇◇◇
アパートから数百メートル離れた、向かいのマンションの屋上。
一人の男が、高性能の望遠レンズを構えていた。
彼は一瞬たりとも、見逃すまいと、息を殺している。
彼の耳のイヤホンからは、冷静な、しかし、緊張を孕んだ声が、絶えず指示を飛ばしていた。
『監視を続けろ。決して、気づかれるな。次のステージの準備が、整うまで……』
レンズの向こうで、蒼真と美月が、幸せそうに微笑み合っている。
それは、まるで、ガラスケースの中に飾られた、美しい蝶の標本のようだった。




